2019-08-11
「今日、私は愛を恐れない。」
短い主題概念だ。
英語ではどういうのかな?元はどうなってる?と見てみたら、
「I will not be afraid of love today.」となっていた。
みんな愛を恐れているのだな~
自分の被害者意識や恨み、憎しみにしがみついているから、それが自分のアイデンティティのように錯覚してしまう。
そういえば子どもの頃は今より時代劇が多くて、江戸時代のドラマなんかで若い娘さんを含んだ一行などが「親の仇打ちの旅」をしている姿なんかをよく見かけた。
幼心に「人生をかけて仇打ちとは、難儀なことだなぁ」と思って見てた。はたして確証なく旅して仇を見つけられるのか、もし見つけられたとしても仇打ちに成功するのか、うまく仇が討てたとして満足できるものか。その時間コストと成功率と満足度を計ったら、自分の人生がもったいないのではないか…。
旅なんかしちゃった日にゃ、人生かけちゃってるわけだから引っ込みもつかなくなる。
自分の価値=仇打ち、になってしまうねぇ。。
そういうものは赦して、いま自分が幸せになってもいい、と知っていたら、もっと浮かばれたろうに。
でも、そういうのは理屈じゃないし、現代に生きる自分だって「意識できる自分は氷山の一角」。見えない無意識にずっと動かされて、相手を傷つけたり自分が傷ついたり失敗ばかりしてきたから、江戸時代の仇打ちと大差ない。
ネガティブな感情はイヤなものだけど、それを自分と同一視していると、そこに倒錯的な執着を感じ、それを愛と勘違いするものわからなくはない。
でも、もうそんなことにかまけている気力も体力もないから、いらないものはさっさと手放して無条件で幸せでいよう、と思う。
愛を恐れる必要はない。
そのまんまで幸せでよろしい。
「これは、正気を失わず、父であり源である神ご自身に創造されたままの私自身を受け入れるという決断である。」(W-pⅡ.282.1:2)
ネガティブな感情を感じているときは、見方が間違っているということだから、それは幻を見ているだけだと手放せばいい。
こういうシンプルなことでも渦中に入るとなんでこうなのかわからなくなるけど、繰り返しワークをしているとどこかに道理が残っているから、イヤな気分を鏡のクモリを磨くようになるたけきれいにしていくことかな?
今朝も「お盆、なんでもっと早く帰省しないのか」と何度も電話してくる母にキーッとしちゃったけど(^_^;)、電話を切ってから“正気”を思い出した。