『Journey through the Text of ACIM』④-第1章の始め(p26~29)

2019-07-26

第1章の構成

6月から読み始めたワプニック先生の『Journey through the Text of A Course in Miracle』の7月分の備忘録。

節に数字は振られていないのだけど、勝手に付けると、第1章は、

 1-0 Introducsion(序)

 1-1 Principle1:“There Is No Order of Difficulty in Miracles”(原理1:奇跡に難しさの序列はない。)

 1-2 Confusion of Level-Mind and Body(レベルの混同―心と体)

 1-3 Miracle As thoughts(想念としての奇跡)

 1-4 Time(時間)

 1-5 Atonement(贖罪)

 1-6 Jesus(イエス)

 1-7 Our Fear of God(神に対する恐れ)

 1-8 Oneness(一体性)

で構成されている。今月は、p26~29「1-2 レベルの混同―心と体」の後半と、「1-3 想念としての奇跡」の前半を読んだ。せめて節ごとに読めればいいのだけど、およばず。。

1-2.レベルの混同―心と体(p26~28)―どの奇跡を行うべきか

ここでまず私の気を引いたのは、ワプニックさんの解説部分ではなくイエスのこの言葉―

「(Ⅲ.4:1-4,6-7)奇跡を無差別に行えるのは私だけであるが、それは私が贖罪そのものだからである。あなたには贖罪における役割があり、それをこれから私が指示していく。どの奇跡を行うべきかを、私に尋ねなさい。」という部分。

どの奇跡を行うべきか―、私に尋ねなさい―

自分の心の中を覗く―

そこにあったのは、「自己表現」だった。

自己表現への恐れを赦し、見方を変える―というのだ。

私は確かに幼い頃から母の顔色ばかり伺って、自分をすなおに表現するということがなかった。今も、たかだか「ランチ何が食べたい?」という時さえ、相手に合わせたほうが楽…と思ってしまう。おしなべて表現するのが苦手だ。

提示される奇跡は、その人、そのタイミングで出てくるものが違うのだろうけれど、「自己表現」というチャレンジは私がこれから一生を通じて取り組むことのように感じた。これは見方を変えることによって、私に与えられたギフトへと変換できるものだと思う。

この世は夜見る夢と同じ―夢の拡大解釈

あと後半のほうでワプニック先生は、

「奇跡は、問題は私たちや夢の中の人物である他者にあるのではなく、夢見者としての私たちにあると教えます。言い換えれば、夢を理解したいのならば、まず夢見者の心を理解しなければならないのです。」

「フロイトの不朽の名作『夢判断』は、私たちが寝ている時に見る夢を理解するためこの理屈を初めて論述したものですが、この考えはイエスのコースの中ではさらに解釈が拡げられ、起きている時であろうと寝ている時であろうと、夢のすべてを含めて考えています。」(訳はだいたい)とおっしゃっている。

私は、フロイトに師事し後に袂を分かったというユングの心理学講座に長いこと通っている。夢は無意識からのもので夢の登場人物はすべて、自分自身の分身でそれがさまざまな役割を演じてメッセージを伝えていると教わっている。

フロイトが発見した「無意識」をユングは独自に発展させ「集合無意識」という人類共通の無意識領域を発見した。ACIMではざっくばらんに言えば、その集合無意識に罪悪感と恐怖があるというのだ。

夢の解釈を生活、人生という舞台でもそのまま用いるというACIMの解釈、フロイトとユング、ACIMの関係性(共通点と違い)が私には興味深い。

「自由な意志」と「意志の自由」

p28には、「自由な意志(free will)」と「意志の自由(freedom of will)」の説明がある。

「私たちは幻想の中では自由ですが、天国においては選ぶということがないので自由な意志(free will)というものはありえません。したがって自由意志という語句は、夢の世界でのみ意味を持ちます。」

「一方、テキストの終わりの方で出てくる意志の自由(freedom of will)というフレーズは、まったく異なった意味合いを持ちます。というのもこちらの方は、神の意志と神の子は彼らの自由な愛の流れをせき止めるものなどなく自由であるという事実について述べているからです。これは『分離は決して起こらなかった』という贖罪の原理を映しています。」

天国には、自由な意志はないが、意志の自由はある―?

ぼんやりわかるような気もするが―クリアではない。

天国では愛という自由をさえぎるものがない、ということかな。

改めて考えるまでもなく、私は前者の自由ばかり追い求めている、後者はないがしろだ…。

まさしく私は自我を生きとる。。真の自由の上に恐れがベールをかけている、と感じた。

恐れを取り除けたら、私にも自由な愛の流れがあふれ出ているのだろうか。その時に私が選んでいる人生は今とどう変わっているか。

私が恐れているものは幻想だと学んでいるのに、私は何を恐れているのだろう。

神を幻想の世に連れてきて、幻想の解決策をねだる

p29から

「奇跡が、私たちが別の教師を選べるよう優しく導いてくれているというのに、私たちは心に戻るのではなく、逆に私たちが作りあげた問題を解決させるために聖霊をこの世に連れてくるということをしています。」

「ほとんどの宗教はこの罠に陥っていて、信奉者たちを幻想の世界に参加させ、神を遠ざけておくためにでっちあげられた問題の解決のために神や神の代理人に祈りを捧げるよう呼びかけているのです。これはまた傲慢の極みであります。」(訳はだいたい)

ここは、一元論と二元論の話ともつながるのだと思うけれど、この世を実在させてそれでこの世で悩みを解決しようとしても有効ではないんだ。この世は映し出された結果の幻想に過ぎない。

ほとんどの宗教、そして私たちは、幻想の世界に神さまを連れてきて、「この幻想を望みどおりに変えてくれんしゃい、神さまなら―できるやろ」

と云いがかりをつけているのだ。

自分の責任を自分でない誰かになすりつけて見ないでおくためのシステム。それがこの世とわが肉体。神はこの世を1mmだって創らなかった。

 

思いつくままに書いてて、まとまりない。

テキストむずかしー。ワプニック解説本むずかしー。

赦しの実践にこんな繰り返しの長い説明いるのかな?

赦しの実践はさらに難しく、赦すべき埋蔵量計り知れない。見るのも恐い、エゴ恐るべし。

いやそうじゃない、とりあえず今日来た赦しの機会を今できる分、やっていこう。

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