2019-07-12
「主語」が違ってた
昨日、カルチャーのユング心理学の講座で先生に奇跡講座(ACIM)について質問されたという話を書いた。
ブログにしたことで、ふっと気づいたことがある。
「主語」が違ってた、と。
先生は、私に、
「それをやることはどんな意味があるのかしら」
「あなたは何を求めているのかしら」
と質問なさり、また私が毎日ワーク(っぽいことを)続けているということに対して、
「習慣になっているというのは考えてないってことだから、なぜ、それを止められないのかしら?」「いつまでやるのかしら?」と聞かれた。
これはACIMについての質問だった。
が、実は違うんだ、これは、ユングの講座のほうについての話だったんだ。
カルチャー講座の意味を自問してたんだ
奇跡講座について問われながら、その水面下で、私が、先生の言葉を借りて自問していたのだ。
カルチャー講座のほうは、ずっと心地よく自分の“居場所”のように感じていた。しかしACIMを学習し出してから世界観のずれを感じている。そのずれが最近はとても大きくなっている。
それに対して、
「これ(カルチャー講座)を続けることはどんな意味があるのかしら」
「ここから何を求めているのかしら」
「(20年近く通っているから当たり前のように続けているけれど、世界観のずれを感じているというなら)なぜ、それは止められないのかしら?」
「いつまでやるの?」
…とACIMについて先生が問うかたちを作りながら、自問していたのだ、私にとってのその講座の意義を。
そう思うと、なんか腑に落ちた。いま軸足はどちらかというとユング講座ではなくACIMにある。
ならば、なぜ(他の部分はかなりコスト削減しているのに)この講座は続けているのか…
そういう話なんだな。
それを少し考えてみようかな?
それとも自分にとって奇跡講座が重要なものであることを明言できていなかった、そのことに“罪悪感”めいた気持を感じていた。だから今回それをオープンにできたことで、済んだ話なのか。
先のことはわからん
私はACIMを学んでいるつもりだったけど、こっちはこっちで、自分に都合がいいところを取り入れようとしているだけのようにも感じている。
…というより、ACIMの主旨を理解できていないのかもしれない。
この先、ずっと続けていけているかどうかもわからない。
まぁ、先のことはわからない。
先生は夢について「続編を乞うご期待ね。」とおっしゃったけど、今朝さっそく夢を見た。
ヘビが池から出てきた。それを追っ払った(なぜか部屋の中に池があった)。
ヘビは寂しそうな目をしながら、水に戻って行った。
さて…どんな意味があるやら。