2019-07-05
昨日の日記で、最近とくに動揺だらけと書いた。
その動揺は、おカネを稼ぐことをせず(稼ぐことができず)貯金を切り崩す生活をしていることが、結構な部分を占めていた。
私は時間で働いたり雇用されたりするのが苦手だ。だけどフリーランスとして前のように働く体力も自信もない。
少しずつでいいから、他の人がいう「副業で稼ぐ」みたいなことが在宅ワークでできないかな、と漠然と思っているが、それに向けて具体的な活動ができていない。
7月に入って「何もせずに今年も半分が終わってしまった」と、不安と情けなさ、恥ずかしさなどを感じていたのだ。
ペラペラノートをめくっていたら、昨日日記に載せたレッスン273をやった際のメモみたいなのがあった(実際にワークする日とブログに書く日にはタイムラグがある)。
「自分の豊かさを享受できる状態にありなさい。
不安があって心ここにあらず、気が急いて受け取れない状態にあり。
神の平安の静けさをまとうことこそ、今のしごと。」
な~るほどねぇ。
何となく感じていること、自分の字で書いてあるのを見ると、確かにそうかなぁ、と思う。
私はすでに無限といっていい豊かさを受け取っている(と感じる)。でも、それをこの地上でどう紐解いてよいかわからない。
その鍵が、気を鎮めること…
か。
「静める」は、「鎮める」のほうが自分の感じに合う。
すぐ動揺してわからなくなるけど、
動揺は、本来ならばあり得ない心の状態で、エゴの観点に自分がいることを示す警告サインのようなもの。
動揺のなかには、加齢も関係するのか自分の一日のキャパシティというか処理能力があまりにも小さく、人と比べて焦ったり恥ずかしかったり情けなかったりということもあったけれど、比較して自分を責めようとするなんて、これもエゴ的だ。
ものの見方のクセを変えるのって、時間かかるなぁ。
すぐに忘れちゃうなぁ。
また忘れるんだろうなぁ。