2019-07-03
あ゛~、骨折 (>_<)
(7月2日の日記のつづき)
車は助手席側の塀に突っ込んだらしい。私は左足の骨2本を複雑骨折、左膝裂傷、左頬を打撲した。運転していた1組の男子が自ら救急車を読んだらしい。
「帰りたくない」と思った。
そしたら、帰らなくてよくなった。
病院泊だけど。。思いが現実になった。
これは私が引き起こしたものだという強い自覚があった。
でも後で聞くところによると、私は一週間位完全におかしくなっていて、季節も自分の歳もわかなくなっていて母を大いに泣かせたらしい。
翌日か翌々日か手術をした。
その後しばらくして病室で友だちと談笑していたときに、車を運転していた男子が松葉づえをつきながら謝りに来た。
病室の入口に立ってすまなそうにしている。
「ごめん…」
「ううん。」
引き起こしたのは実は私で、「ごめん」はこっちのせりふだ。
額と頭に包帯をぐるぐる巻きにしていて、髪が包帯から上に向かってツンツン立っている。
「パイナップルみたいな髪形だな」と思った。
友だちによると、学校は大スキャンダルだったとか。
「え~、あの二人つき合ってたの?」「たまさんてまじめそうに見えたけど」とか言われていたか…
1組男子は膝と額にケガはしていたけど骨折とかではなかったので、2週間くらいで退院した。私は何ヶ月か入院した。
雪道を松葉づえをつきながら久しぶりに登校した時はみんなの注目を浴びた。恥ずかしかった。
これは“分離の行動化”ってやつだ
この交通事故のことを、ACIMを勉強するようになってからふと思い出し、これもまた神との分離を背景とする罪悪感の投影なんだろうな~と思った。
親(神)を裏切るかたちで遊びに行った。そして家に帰りたくないと思った。
→悪いことをした。
→天罰がくだった。
→骨は分断した。膝も裂けた。
→分離は本当だ…!
→私はこの世でエゴに付いていくしかない。
…なんかベタなストーリーだ。
わざわざこんな大掛かりな仕掛けで、、、しかも“被害者役”で仕込むとは、、、エゴに乗っ取られた私は「やるときはやる子」だったのだ。
ワプニックさんのテキスト解説本を読んで気づいた
私は無意識ながら、この事故にはいくつもの“副産物”があった。
・ひとつは受験期をワープできたこと(国語と英語だけで行ける私立短大に行けることになった)。
・そして、親がらみのこと。
ワプニック先生の『Journey through the Text of “A Course in Miracles”』のこの前読んだところには、こんなくだりがあった。
「時おり倒錯した考えのもと、痛みが満足を与えるものにすり替わり、それがそのまま他者を操る最も効果的な方法になることもあります。
私たちは赤ん坊がいかに早く己の要求を満たすことを身に付けるか見てきました。こうしたあまのじゃくの考えは大人になっても変わりません。
もし配偶者が十分に愛してくれていないと感じたなら、体調を崩して看病させようとします。…(中略)…自分自身は苦しんでいるにも関わらず、他者を咎めることができる。そこには本人も気づいていない喜びがあります。」(p22、訳はだいたい)
…あ、これ私だ、と昨日気づいた。
私は物心ついた頃から母が恐くてまったく甘えるということができずに成長した(実際には甘えっぱなしだったが、ストレートには甘えられなかった)。
このケガはややこしい私が高校卒業し親元を離れてしまう前に、母に甘えたい、面倒を見てもらいたいという願いを叶える“合理的な装置”として機能したのだ。
母には娘の事故のことで親戚や世間に恥ずかしい思いもさせた。コントロールしてきたはずの娘が肝心のところで思う通りにならず、忸怩たる思いだったかもしれない。
自分の痛みと引き換えに、他者を咎め操作する、そこには倒錯した喜びがあります、というワプニック先生の指摘どおりだった。
私は罪悪感を罰するという主たるドラマと並行したストーリーの中で、痛みと引き換えに悲劇のヒロイン役を演じながら何重もの利益を得ていたのだと思う(並行したお話はこれ以外にもあるかもしれない)。
ワプニックさんの本、テキストの解説本と思っていたけど、自分の経験ともつながるとは…。
分離は誤解だと知ったのだから、もうそれを反映する必要はない。まだ無意識は大部分が分離した世界を信じているけど、意識に上ってきた時にはひとつずつ手放したいと思う。