2019-07-02
宇宙では、分離の行動化がさまざまな形で表れている
『神の使者』によれば、私たちが生きているこの宇宙は、自分を神から引きちぎって離れたという誤解(実は離れてない!)が、さまざまな形で表れたシンボルや再現ドラマなのだと言う。
私たちは、神を裏切って勝手に離れてしまったことにひどい罪悪感を持ち、神は今に罰っしにやってくるに違いないと恐れている。これは持ちこたえられないくらい大きな恐怖と罪悪感だ。
エゴはこの私たちの弱みに対して「宇宙」というかくれみのと「個々の身体」というアトラクションを提供してくれ、さらに分離のゲンジツ化が進む。…そして、内なる罪悪感と恐怖は、自分の身体や世の中に起きることとして見えるようになった。
この分離の行動化と無意識の罪悪感の投影というドラマは、今もいたるところで繰り広げられていて世の中を動かしているというが、私はふと若かりし頃を思い出し、きれいに再現化されているなぁ、と思うことがあった。
あまりに昔過ぎて、おぼろげになった思い出だけど―
“分離の行動化”-若かりし頃の自分のおはなし
それはこの幻想の時の約40年前。とおい、とおい昔。私が富山県の田舎の高校3年生だった頃だ(ティーンエイジャー…)。
9月某日体育祭。私たち4組と1組は何色だか忘れたけどチームとなって戦い大いに盛り上がった。
その上がったテンションの勢いで、秋分の日に1組と4組の何人かでボーリングに行くことになったという。私は好奇心はあったが、英語の塾の日だったので断った。
秋分の日当日、私が塾に向かって自転車を漕いでいたら、1組の男子の車に遭遇した(18歳過ぎたら免許を取ったり車に乗ったりわりと自由な高校だった)。友だちのH子ちゃんが乗っている。
聞けば、もう一人の女子を待っているのだけど、急に行くのを止めようかと迷いだしたのだとか。
それでなんでか、改めて私が誘われることになった。
そして…私はこともあろうに、自転車を乗り捨てその“誘惑”に乗ってしまった。
1組はちょっと弾けていておもしろい男子が多くて、トロくさい私は生まれて初めてのボーリングをいじられながらも楽しんだ。それからどういう流れになったか、車を持っている男子とその友だち、H子ちゃんと私ーの4人で、富山市(県内では都会だった)まで映画を見にいこうということになった。
映画を観終わったくらいから、私はそわそわしだした。
親には塾に行っていることになっている。とにかく夕ご飯の6時半頃までにはシレっと家に戻っていなくてはまずい。
夕暮れを前に私は「帰る、帰る」と大騒ぎし出し、H子ちゃんと男子を残して、車の持ち主の男子に家まで送ってもらうことになった。
地元の町まで着いたのは6時少し前。家はすぐこの先だ。
よかった…
安堵している私を見て、車で送ってくれた男子は、
「余裕だね。この町一週旅行する?」と言ってきた。
男子と二人で車にいるのなんて初めてだ。
夕焼けきれいだな。
風、少しだけ涼しくなったな。気持ちいいな。
その時私は、一瞬、だけどとっても強く、
「帰りたくない」と思った。
その子に恋をしてたとかいうわけじゃない。
夏と秋の端境の、この昼と夜の端境…。なにか夢みたいなこの時、きれいな空…、ほんの一瞬、帰りたくない、と思ったのだ。
そして…
まったく記憶が飛ぶのだけど、次に気がついた時、よく見るドラマで俳優さんが病院で意識を戻すシーン、もわっとしていた天井がだんだん白くはっきりしていくあれ…、そのまんまの光景が広がった。
あ゛…身体が、足がぜんぜん動かない。
…「あなたは交通事故で救急車で運ばれたんですよ。」と最初に教えてくれたのは、看護師さんか母か…。
そう。
記憶はないけれど聞いたところによると、1組男子が運転していた車がブロック塀に激突、二人して救急車で運ばれ即入院したのだった。