2019-06-24
理想(キリストの心眼を使う)とゲンジツ(エゴの選択のまま)のギャップ
「私は毎日、毎時、刻一刻、自分が見たいものや聞きたい音を選び、自分にとって真理であってほしいものの証拠を選択している。」(W-pⅡ.271.1:1)
まさにこのとおりだ。私の内なる観念がこの世のスクリーンに映し出されているのだと思う。
これはただ映し出されたもので実態のない“結果”だ。それに動ずる必要はまったくない。
「今日、私は、キリストが私に見せようとするものを見て、神の声を聞き、神の創造における真理を証しするものを求める、という選択をする。キリストの視覚において、世界と神の被造物が出会い、それからがひとつに交わるとき、すべての知覚が消滅する。」(W-pⅡ.271.1:2,3)
これがあるべき姿であり行きたいところだ。
でも、ここにいる(と実感している)私にとって、そのギャップはあまりにも大きい。究極の理想だけど、夜空で見える星より遠いんじゃないか。(意味不明なたとえ。計り知れないほど遠いという気持ち)
そんな手が届かないものより届きそうなものに焦点を絞るほうがゲンジツテキでは…?いやいやこのゲンジツもふにゃふにゃして当てにならないものだと知っちゃっているし…。はぁ。
CT検査の結果が遅れていることにビビる
話は飛ぶけど、5月の終わりに受けた病院の肺CTの検査結果が来なくて不安になっていた。主治医の先生によると、「僕が見て何ともなければ次の勤務日すぐ送るから来週には着くよ」とおっしゃっていた。
それが来ない。
何ともなければ → 翌週には着くはず。
着かない → 何ともなくはない、のか?
……。
肺のガラス状陰影は甲状腺がんを患う人にはまま見られることで、それを過度に恐れる必要はない。だけど大きさが一定以上になった場合は、専門医(肺がん医)にリファーするという。
この世は幻想であるから、病気だろうと病気でなかろうとリアルではない。嗜好の問題とも言える。
…ならば、私は健康を選びたい!これ以上新たな病気を増やしたくない。
これは自我の声だろうか。
これ自体というより私が不安がっていることを、自我は喜んでいるだろう。
「ほれほれ、自分はそこそこACIMを勉強した気になっているけど、え?今のこれ、不安だよな?
恐怖だろうが。
あんたは、まったく変わってないよ。
何がキリストの心眼じゃ、アホぬかすな。」
こう思っているんじゃ…。
あ゛~、私は自我にどっぷり浸かっているのか。それとも聖霊さんに導かれているのか。その両方なのか。
恐怖心の中身
恐怖心を覗いてみたら、私にはいくつかのことがあった。
・一つは、身体性への信頼(身体は私にとって今もリアルだ)
・私という特別性への執着(私は私だから大事というエゴの論理を現す最もわかりやすいものが我が身体だ、もちろん分離を表す)
・病むという不完全性を拒否したい(この世では病むことは不完全、弱さを象徴する、それは嫌だし隠したい)
・母に申し訳ない(年老いた母に新たな心配の種を作りたくない、罪悪感)
これは、どう考えてもエゴの思考だし間違っている。
完全性はこの世に求めるものではなく、神の一なる子として求めるもの。見当違いのところで求めようとしても見つからないばかりか、エゴが用意した落胆、絶望…に至るのでは)
健康に執着する必要はないが、健康であってもいい。心の誤りを身体に投影する必要はない。
身体のことに限らず、私は幸せであってもいい。幸せであることは自然な状態だ。
恐怖と罪悪感の埋蔵量は未だすごそうだ
3週間以上経っても来ないというのは、やっはり変?と思って、先週末電話してみたら、「主治医もまだ診察結果文を作成しておらず郵送もしていない。タイミングによって1ヶ月近くかかることもある。」との答えだった。
「キリストの優しい視覚は、世界を死から購う。キリストがまなざしを向けるものはすべて、ひとつに結ばれた創造主と被造物、父と子を思い出して、ただ生きるのみである。」(W-pⅡ.271.1:4)
キリストの心眼を使う…ということがどういうことか、実感としてはまだほど遠いけど、不安や恐怖を感じたら無意識に沈めていたものが上がってきた証拠だから、ひとつずつ手放していくしかないかな、と思う。
エゴはえらい支配力を持っており、私にはまだまだ莫大な恐怖と罪悪感の埋蔵量がありそうだと感じる日々だ。