ACIMワークブック第Ⅱ部‐6.キリストとは何か

2019-06-20

キリストとは何か

「5.肉体とは何か」もそうだったが、「6.キリストとは何か」の説明文も私には難しかった。一つ一つの言葉はわかるが、上滑りして頭なのか心なのか、中にはなかなか入りづらかった。

キリストは、イエス・キリスト個人をさすのではもちろんない。

キリストとは

・神が創造したままの神の子であり、

・私たちが共有するたった一つの自己である。

・それぞれの「私の心」はキリストの一部であり、キリストの心はまた「私の心」の一部である。

・それはまた聖霊の住処である。

それはどこに?

・キリストは神の内にとどまっている。

それはどんなもの?

・私たちと神を一つに保つ絆であり

・それこそが「私」の中で真に存在する唯一の部分である。

説明文から抜き出してみた。

おそらく私がわかりにくく感じるのは、文中で「キリスト」が擬人化されていることとも関係あるようだ。「彼」という代名詞だったり「キリストの顔」という表現を見て、キリストという男性!?、と無意識にイメージしてしまって受け付けにくくなってしまっているのかも?

聖霊は私たちの内なるキリストに拠点を置いて、そこから我々の“夢”に介入を試み、間違った夢を真理へと修正する手助けをする。間違った夢の真理への修正ーそれが赦しだ。

そして、その赦しがすべてなされれば、「私」はもはやキリストなのだから、それを対象化することはなくなる。

ここにいるそれぞれの「私」が、自分が見ているこの世界でキリストとなり同胞を救い世界を救う。

この私がキリストとなること、それがACIMなのだ。

キリストとはほど遠いエゴまみれの私

しかし、実際には私がやっているこの「私」は、エゴまみれで、キリストとはほど遠い…

キリストは皆が共有する一つの自己のはずだが、私は個としての自分がちょっと好きで、かつ強い執着がある。それをベースに生きたいという欲もある。

観念としてのACIMの世界に憧れがあるものの、唯一神と神の子だけが現実だとは思えていないのかもしれない。

土台から修正すべき…なんだ。

自分の無意識の領域は自分ではわからない。

果てしないエゴの支配力…を感じる。

エゴとしての私がちょっとばかり気分がよくなったり、この幻想の世界をせいぜい住みやすくすることにしか、実のところ関心がないのかもしれない…

(昨夜、ちょっと傷ついたり恥ずかしいと感じることがあって感情がネガティブに振れた。決して傷つくことはないはずなのに!

そのため少し自虐モードになった。赦しを試みたら今は気分が上向いた)

すぐわからなくなる。

でもとりあえずこの道の途中にいる。

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