2019-06-13
一切の幻想を超越する一つの幻想を求めて
レッスン269「私の視覚は、キリストの顔を見つけにいく。」は次章「6.キリストとは何か」につながるワークで、レッスン271「今日、私はキリストの心眼を使う。」へと発展する。
ここには幻想のカケラでいる私たち神の子が現実に目覚めるためにできることが平たく書かれている。
「あなた(神)から与えられた導き手である聖霊を通して新しい知覚を見出し、聖霊のレッスンを通して知覚を超えて真理に戻ることができるようにと、その手段が私に与えられています。」(W-pⅡ.269.1:3)
「私は、自分で作り出した一切の幻想を超越するこの一つの幻想を求めます。」(W-pⅡ.269.1:4)
「今日、私は、赦された世界を見ることを選択します。その世界では、あらゆる人々が私にキリストの顔を見せてくれます。そして、私の見ているものは私に属するものであり、神聖な神の子以外には何も存在しないということを教えてくれます。」(W-pⅡ.269.1:5)
気になるところを書き移していたら全部になってしまう。。。
真のアイデンティーの在りか
ここでは「アイデンティー」という言葉の使い方が面白いと思った。
「私たちと一なる自己を共有する存在の顔を見るとき、私たちは一つの心眼を共有する。
神の子であるその存在のゆえに、そして私たち自身のアイデンティティーであるその存在のゆえに、私たちはひとつである。」(W-pⅡ.269.2:2,3)
この世ではアイデンティーは一般的には個を表すもので、「人が時や場面を越えて一個の人格として存在し、自己を自己として確信する自我の統一を持っていること」と説明される。
しかしACIMでは「個」や「個性」は認められず「私たちのアイデンティティーであるその存在のゆえに、私たちはひとつである。」と言い切っているところ。
アイデンティーは哲学的には「ものがそれ自身に対して同じであって、一個のものとして存在すること」らしいから、ACIMが「神の延長である神の子」を私たちのアイデンティティーとしているのは、まったく納得できると思った。
「私のアイデンティーって何?」と思うことが多かった若かりし頃、実はその本質はここにあるとは思いもよらなかった。(今だって頭のなかで、なるほど、と思っているだけだけど)
せめて一日のうちのわずかでも神とともにある喜びを
いつもワーク中でも気づけば、片付けるべきこと、解決すべきこと、健康や経済の不安、世の中のこと、問題にばかり目を向けてしまう。でも現実は神とともに今もあるのだから、せめて朝と夜の10~15分位の瞑想のときには、神とある喜びだけを感じるときを持ってもいいんじゃないか、そう思った。
そもそもそれが第2部の目的だった。