2019-06-06
レッスン266に抵抗を感じたのにはわけがあった
「父よ、あなたは、ご自身のすべての子どもたちを、目に見える救済者および助言者として、私に授けてくださいました。彼らはあなたの聖なる御声を私に運ぶ者です。
彼らの中に、あなたが反映されています。彼らの中で、キリストが、私の人の自己から私を見つめ返します。」(W-pⅡ.266.1:1,2)
レッスン266にはなんとなく抵抗を感じた。
社会はますます物騒だし、街を歩くと中学生が描いた「人を疑う勇気を持ちましょう」との標語ポスターが目に入る。隙を見せたらだまされる、信じる者はばかを見るのだ…
どこかそう思っているところがあったから、私にとって「神のすべての子どもたちが目に見える救済者および助言者」とは文字どおりには受け止めにくかったのだ。
そこからつらつらと考えごとをしていたら、気づけば20年以上前の自分のことを思い出していた。
調査の仕事で必要だったウソの澱
私はその頃もフリーランスでマーケティングを中心とした調査の仕事をしていた。
調査の過程で、ウソというわけではないが真実を話さないことはよくあった。
たとえば、いろいろな都市に出向いてホテルの新規出店調査をする。その場合統計データなどとともに重要になるのが、競合になると思われるホテルの現在の経営状況だ。支配人にアポをとって直接話を伺う。
平均稼働率は?土日と平日の差は?客層は?利用目的は?結婚式の平均参列者数は?などなど。
その際、「お宅の近くに新しいホテルを計画しているんですけど、お話聞かせてもらえませんか」とは、もちろん言わない。
ただ調査とだけ話してお願いする。わかる人はそれだけで「どこぞの出店調査か」とわかるがそうでないこともある。とにかく会ってもらう。会えさえすれば詳しい話をしてもらえなくても、雰囲気や口ぶりから推測できる。
またミステリーショッパー(覆面調査)という調査手法では、お客さんとしてお店を利用して調査をする。私は警戒心をもたれにくいほうで、いろんな調査ではそれが役に立った。罪悪感はなく、ともかく東京でひとり生きていくのに必死だった。
このレッスン266の文を読んでいるとき、その若かりし頃の自分が出てきた。仕事上の小さなウソからくる罪悪感が、私のなかに澱のように溜まっていたのだ。
遠いできごと、たとえばよその国の事件とか政治家の問題…などは比較的赦しやすい。
でも、自分の身体に沁みついている経験は取り消しにくい。
それは、私がじっさいにやったことだから…
罪悪感が他者の顔に投影されて私を責める
私が、レッスン266に抵抗を感じたのは、この世がうかうかしていたらだまされる社会だから、というわけではなくて、自分が人をだますようなことをしていたから。職務上必要と申し開きをしていたけれど、そのことに実は罪悪感がありそれを抑圧していたからだ…と知った。
レッスン266でいう「彼らの中で、キリストが、私の真の自己から私を見つめ返す」のではなく、「私のエゴの罪悪感から、私を責めていた」のだ。
それで、今回無意識から上がってきた罪悪感を赦した。
それはほんの少しで、まだまだ埋蔵量がありそうだった。
理屈ではわかって納得していても、自分のことはやっぱりリアルだ。