2019-05-29
ACIMワーク264-私は神の愛に包まれている。
ACIMの365のワークは、レッスン264「私は神の愛に包まれている。」をありのままに感じられるようになるためのものかな、と思う。
神への深い怖れも、罪悪感もなく、そのままに。
私の心にはまだまだ得体のしれない恐怖と「ごめんなさい、ごめんなさい、許して」と身をこごめたい気持ちがあるよ。
恐ろしくて覗けない。
それでもワークを始めた最初の頃よりは、薄皮を剥ぐように少ーしずつそういった気持ちに近づきやすくなってきている。
ACIMワークを始めると、病気が発覚したり重要な人間関係に変化があったりトラブルに巻き込まれたり、私の場合長年怖くていけなかった歯医者さんに行くことになったり、というけっこうな変化が起こりがち。それは、恐怖や罪悪感に近づけるようになった“結果”として表面化しているのかもしれない。
肉体を聖霊の目的の道具とする
「5.肉体とは何か」のワーク中、その解説を連日読む。
最初はエゴが肉体に与えた目的、機能のほうに注目してしまっていたが、何度も読むにつれ「肉体は、神の子が正気に戻るための手段である。(W-pⅡ.5-4:1)」以降の聖霊の目的・はたらきのほうに比重が移った。
「それは出口のない地獄に彼を閉じ込める囲いとして作り出されたが、すでに天国というゴールが、地獄での探求と入れ替わっている。(W-pⅡ.5-4:2)」
「神の子は兄弟に手を差し伸べ、自分と一緒に道を歩むようにと兄弟を助ける。そのとき肉体は神聖である。(W-pⅡ.5-4:3)」
「愛があなたの安全である。恐れは存在しない。(W-pⅡ.5-5:4)」
「愛と一体化して、あなたの自己を見出しなさい。(W-pⅡ.5-5:8)」
神の子はじつはひとりしかいない。
私は私という幻想のフィルターを通して世界を見ているだけだ。
この世にいるということは肉体を持っているということ。それを前提とするなら、みんな神の子チームだ。
私は神の子チーム全体で故郷の家に帰るこの壮大なプロジェクトのメンバーでいたい。そしてチームのなかで私のはたらきをしたい。
「兄弟よ、今日、この中で私と一つにつながろう。これは救済の祈りであり。私たちと世界を一緒に救済するものに、私たちはつながるべきではないだろうか。」(W-pⅡ.264.2:1,2,3)