2019-05-22
「考え方をただ聞いているときは素晴らしいと思うのですが…」
『奇跡講座入門』は、A Course in Miracle(ACIM)のエッセンスを短く平易な文章で説明しているところに意義があると思った。それに加えQ&Aがありがたかった。
とくにp145の
「そうした考え方全般について、ただ聞いているだけのときは素晴らしいと感じられるのですが、それを実践する際の具体的な事例については、いろいろと考えてしまいます。」
から始まる質問には、共感してくすりと笑ってしまった。古今東西赦しが難しいのは同じか…。
たとえば、あと1時間でプロジェクトを仕上げなければならないとき誰かが邪魔に入るといったゲンジツ場面で葛藤を感じるような場合、「正しい心の状態」に留まりつつ、いかに自分のやるべきこと、あるいはやりたいことを遂行できるか。
程度の差こそあれ、こういう事態は、ゲンジツの場面にはつきものだ。もっともっと逼迫した深刻な場合も多い。
正しい心の状態にいるからといって“困った”事態が急に消えるとも限らない。
ワプニックさんは「非常に良い質問ですね。」と受け、いくつか考え方を示唆された。
具体的場面での考え方
まず、問うべき姿勢として、
・この1時間にあなたは自分のゴールを達成すべきだと信じているか。
・それとも、あなたのために神が用意しているゴールを達成すべきだと信じているか。
そのうえで具体的な可能性として、
・もしかしたら、それは丸1時間要するものではないかもしれない(実際には邪魔にならない可能性)。
・あるいは、そもそもそれはあなたがやらなくてもいいことかもしれない。
・そのプロジェクトより、邪魔した人のほうがあなたにとって重要かも。
・両方とも重要かも。
・やはりその仕事を仕上げると同時にその人を赦すことも必要なのかも。
といろんな見方を示されている。
ポイントとなるのは、
「『講座』ははっきり断言していますが、赦しは私たち自身で実行することはできないものであり、聖霊によって私たちを通して為されるものです。」(p147)と、聖霊を頼みにすることの重要性が明記されている点だ。
聖霊にゆだねること
このような葛藤は偶然起きているのではない。それこそが、非常に重要なレッスンの一部なのだ。
そして、なすべきこととして自分の奥深くに入り自分のやり方で祈り、次のように聖霊に言うようにと提案されている。
「『私はこのプロジェクトを仕上げなければならないのですが、この人が私に向かって助けを求めて叫んでいます。私はこの人を、自分を邪魔する嫌な奴として見ることはしたくありません。……どうか助けてください』」(p147)と。
これによって邪魔するかのように見えた人を、自我ではなく聖霊の見方で見ることが可能になり「なんとか事はうまく運ぶはず」と言う。
そして、「それが『奇跡』というものです。」(p148)と。
いつもそのように見方を変えられるとは限らないけれど、「起こっていることは、自分のコースのために起こるべくして起こっている」とわかっているだけでも、被害者意識におぼれなくてすむかもしれない。
狡猾なエゴに足元をすくわれる―私の場合
私は実家に帰省したときに、いつも母にACIMの朝のワーク瞑想を邪魔され(た気分になり)、いらいらしていた。
「すこしの時間だけ仕事したいから入ってこないで」と言っているのに、「ねえ、○○どこやったか知らん?」「ちょっとこれ教えて~」と大声をあげてドアを開けてくる。
も~!せっかくワークしているのに!!
私のエゴはかなり狡猾だ。ACIMワークを使いながら、ワークを正当化しつつ攻撃されうる自分=分離を現実化する。
私は「ACIM学習者」というペルソナをつけながら、エゴの思うままに操られていたのだ。
あれ、そういえば、先月の帰省ではまったく揉めなかったな、と思いだしたら、帰省滞在中ワークをまったくしてなかった!
それがいいのか悪いのはわからないけれど。。。
エゴは虎視眈々とトラップを仕掛けている。
あ~、まちがいだらけの私…少しずつでも本当の学習者に近づいていけますように。