「God is(神はある、それ以外はない)」…はそれを言っちゃあおしまいよ!?

2019-05-02

昨日の日記は極端だった、と反省

昨日、改元フィーバーの様子について

「時がないのなら改元もあるはずはない。

宇宙がないなら国もない。

個々の身体がないならば天皇も自分の身体も実相にはない。

…だって、God is(神はある、それ以外のものは何もない)だから。」

なんて書いてしまった(5月1日日記)が、これは極端だった、と思い返した。

God is(神はある、それ以外のものは何もない)」は、トランプでいえばジョーカー。

それを言っちゃあおしまい…なのだ。

それで済むなら何もいらない。文字どおり、お仕舞い。

そうではないから、この世では言葉もワークも要るのだ。

God isは絶対的真理だけど、受け入れがたい、だから言葉が要る

God is(神はある、それ以外のものは何もない)」は、ゲイリー・レナード著『神の使者』のなかでアサンディッドマスターによって「絶対的真理」と表されている。

この言葉は純粋な非二元論に基づいて受け止められなくてはならない。

神はある」…前半はわかりやすい。受け入れられる。

問題は後半だ。

それ以外のものは何もない。

これは受け入れがたい。

宇宙も「私」という個も私の身体も、家も家族も頑張りもすべて手放さなくてはならなくなる。

私たちはこの世を意味あるものと感じたい。手放したくはない。だから、認めたくはないし認められない。激しい無意識の抵抗がある。

だけど、これが本当の真実なのだ。私たちがこの世で見ているものはすべて実際は幻想にすぎない。

だけど、God isだけで通れば事足りるけれど、そうではないからACIMテキストは言葉を重ね、私たちはワークをこつこつやっているんだった。

この二語の真実をそのとおりに感じるために、赦しの実践の積み重ねが要るんだった。

昨日、マスメディアに煽られるような改元フィーバーに水を差したくなってしまったのだけど、これはまた、私に赦すべきところがあるから反応した類のものなのかもしれない。

God is.

これこそ真理だ。

最高にすばらしい!

だけど、今それだけで終わらせちゃいけない。通じないから。

これは最後の最後、すべての幻想が赦されてこそ腑に落ちる事実なんだった。

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