平成のおわりにー 生前退位という天皇の大きな功績

2019-03-26

来週新元号発表、平成もいよいよフィナーレ

いよいよ来週月曜日に新年号が発表される。

「平成」もいよいよフィナーレのカウントダウン。

平成から新元号へ。そして翌年の東京オリンピックへ、と世の中全体が郷愁と期待感が入り混じりややハイになっている気がする。

私も寂しいような感慨深いような気分。歳を重ねた人ほど期待より感慨のほうが大きいのかもしれない。

元号というのは、リアルではないゲンジツのなかのさらにリアルではない記号だ。

何かの本で権力者は時を支配する、と読んだ。今の時代天皇は権力者ではないが、天皇や年号が人々の無意識やイメージに大きな影響を与えそれが社会を動かすというは想像できる。

天皇家は日本の国民の投影の大きな受け皿なのだ。

国民に敬愛されている天皇、皇后陛下

現天皇皇后両陛下は国民にたいへん敬愛されていると思う。

私も齢を重ねられて被災地慰問や海外への訪問を始めたくさんの公務に当たられている映像を見て、頭が下がり心を打たれる。

それは天皇だから、というより、自ら象徴を背負いエゴを排して国民(他者)に尽くされ国民(他者)の幸福を祈っておられる、その姿に感銘しているのではないだろうか。

それでもやはり天皇という身分(立場)があってこそのありがたさなのだが。

生まれながらにして「国の象徴」としての生き方が決められるというのはたいへんなことだ(まず、国自体が見えないものでその象徴って何だ、と悩む)。

それを祈りをもって見事にまっとうされた。私なんかの想像をはるかに超える大変さ、辛抱、葛藤や苦しみがあったのではないかなと思う。

退位されてすこしゆっくり休めるのだろうか。そうだといいのだけど…

生前退位という天皇の大功績

私は現天皇のたくさんの功績(この言葉遣いが妥当かわからないけれど)の中でも、生前退位なさったことが最も大きな功績の一つだと思っている。

退位するということによって、天皇というのはその人にぴったりくっついた「身分」なのではなく、「役割」や「仕事」のようなものだと社会に認知させたから。

「天皇」=象徴という役割があって、それを私はやってきましたよ~、私=天皇ではないんですよ~という宣言のようにも感じる。

これは天皇制という慣習の世界にあって、きわめて「民主的でリベラル」とも言えるのではないだろうか。

天皇は生まれながらにして「天皇」に定められている。それって「職業選択の自由」とか憲法に反しているんじゃ、、と検索してみたら、「天皇制は憲法上、憲法が認めた例外」とされているとのこと。

だから天皇の人権は多少制限されてもやむを得ないとされているのだそう。「憲法上、憲法が認めた例外」っていうのも突き詰めるとよくわからない。

『奇跡講座』学習者が天皇について書くのは

自分の身体も含めてこの世のすべてを幻想として見る『奇跡講座』の学習者として、この社会の中での幻想とも言える天皇や天皇制について感じることを書くのは、夢のなかで夢のはなしをしているみたいに変な感じだ。

天皇制って正直よくわからない。一方、私は現天皇にとても尊敬を感じる。

そういえば、、私が「天皇」を初めて意識したのは、幼稚園の時。

昭和天皇、香淳皇后が富山県内の国道8号線を車で通られるからとお見送りをした時だった。

園児みんなが旗を振って車を見送ったのだ。

車が通りすぎるのを見るために幼稚園を挙げて道端でずっと待機しているのは、幼い子に「身分」を教えこむのに有効だった。

私は昭和天皇崩御の日会社に喪服(黒いワンピース)を着ていき、同僚に驚かれた。

日本という国に生まれ物心ついた時から親しんでいる天皇や天皇制は私の無意識にもしっかり根付いていると感じる。