ACIMワーク251-私は真理だけを必要としている。

2019-03-25

桜満開直前

今朝のウォーキングでの桜。満開直前。82F95EA4-F87A-4C79-BF34-C7BCE9E20E07

写真の撮り方ヘタで桜の色の美しさが伝わらないけど。

一年に一度、一週間の華麗で切ない桜ショーが始まる。

あの薄ピンクの薄い薄い花びらに生と死が凝縮されているから、こんなに人を魅了するんだろうな~

ACIMワーク251-私は真理だけを必要としている。

レッスン251ー「私は多くのものを探し求めたが、見つけたのは絶望だった。」(L251-1-1)から説明が始まる。

見つけたのは絶望、オンリー!? いや~、そこまでひどいとは思っていなかったけど。

奇跡講座(ACIM)が「一般向けではない」「万人のニーズを満たすものではない」と言われるのは、こういうところだろう。

大前提としてゲンジツの世の否定がある。

私たちはこの世と人間を、「いろいろあるけれど善いものだよ」と捉えることから、人生(と思えるもの)をスタートさせる。

その人生のなかで、「頑張れば報われるんだよ」と教えられ「だから頑張れ」と教育される。

あながちそうとは言えないことは大人になってわかるけれど、それを言っちゃあおしまいなのだ。

そうやって、この世の中と折り合いをつけて、幸せを見つけることが人間の命題なのだと思い込んでいる。

そして、学業を終え仕事を見つけ、伴侶を獲得し子孫をもうけ、映画や音楽を楽しみスポーツに興じ、旅をして自然を愛で、人生を豊かなものにしようと頑張っている。

そういうささやかな「大変な頑張り」を、ACIMは全否定しているかのように見える。

それだから、この人生に成功し満足している人より、そういうグループには入らなかった人のほうが、ACIMを学びやすい傾向にあると言われるのかもしれない。

人生に満足している人は、努力して頑張って手に入れたものがリアルではないなどという“たわごと”は、到底受け入れられないだろう。

私はうまく行っているほうではないし、ACIMの教えはすばらしいと思っているけれど、それでも「見つけたのは絶望だった」とバッサリ切られるとひっかかる。

桜の美しさもそうだし先週行われたフィギュアスケート世界選手権での頂上決戦での演技もそうだし(女子も男子も)、美しくて感動的なものもいっぱいあるよー、と言いたくなる。

真理とこの世の美しさは両立するのか

こう書いてきて、ふっと、前にくさちゃんがブログで言っておられたことを思い出した。

3月初旬に私がゲーリー・レナードさん来日ワークショップ発見の日記を載せた時、2年前京都ワークショップに参加された際のブログの感想を紹介してくださったのだ(くさちゃんのブログ:2017年5月7日の記事より)。

「外部の事柄として感覚化されているものは
心の投影と言われていて。

このワークショップと、会場の美しい背景が
自分の心の投影だとしたら。

それはステキなことだな、と僕も思うのです。」

…そう見たら、この世に絶望せずに何かを見て美しい、素敵だと感じられることは、やっぱり素敵なことだな、と思っていいのかな、と思えた。

私は真理を必要としている。

だけど、それはこの世の美しさをすべて投げ捨てなければいけないものではない。

真理の中ですべてがかわる。レッスン251にも、

今、私は自分に必要なすべてをもっている。

今、ほしいものすべてをもっている。

そして今、ついに私は心安らかな自分を見出す。」(L251-1-7,8,9)

とある。

やがてやがて、真理の見る術が身に付いたら、この世はすべて私の安らかさの投影となるのかな。私は安らかさと美しさしか感じられなくなるんだろうか。

そういう景色を見てみたい。

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