2019-03-22
罪とは何か
「罪とは狂気である。」(第2部、4-1-1)から始まるこの節。
罪とは狂気…。そう言われてもなかなか難しい。
私たちは神から離れたと思い込み(誤解)、そのことに深い深い罪悪感を感じているがために逃げ場所としてこの宇宙を作った。
それは単なる意識の産物であり「この世界ゲーム」という架空のものだ。
ただプレーヤーである個々の私たちはゲームに入り込んでいて、そのことを知らない。見えない。
この世界をよりよいものにしよう、自分の人生と思えるものをいいものにしたいと、このゲームを支えるだけだ。
『奇跡講座』(ACIM)はこの世界を支える根本原理が罪悪感であり、それが幻想を作り上げていると繰り返し伝えている。
幻想は真実ではない。
罪はないのだ。
しかし私たちはいつもいつも“罪人”を糾弾し続けている。
自分の外に見える罪と思えるもの。許しがたいと思えるもの。
それを、私が・心の中で赦して流すのだ。
ゲームを俯瞰して外から見たら、私たちの知覚は狂っているのだから。
「狂人の夢はぞっとするほど恐ろしく、罪は身の毛がよだつほど怖いものに見える。
だが、罪が知覚するものは、幼稚なゲームにすぎない。」(第2部、4-4-1,2)
肉体の目的を変える
私たちの肉体は、宇宙と同様、分離した状態を表すイリュージョンの一種にすぎない。
「肉体の目的は、存続のために努力することである。しかし、努力の目標は変わりえる。」(第2部、4-2-2,3)
「虚偽だけでなく真理も、肉体の目的となりえる。」(第2部、4-2-6)
分離の象徴である肉体を、真理に仕えるものとする。
これがこのワーク全体の目的なのだと思う。
赦しを知っていることとじっさいに赦せること
罪悪感… 自分は罪深いと思う気持ちは、なんと根深いものだろう。
まず自分の意識にすら上らないし、意識できたとしてもなかなか信じられない。
私たちは心の奥底で自分を赦してはいないのだ。
くりかえしくりかえし教えてもらって、たまーにかすかに信じることができるだけ。
「神の子よ、あなたはいつまで罪のゲームを続けるつもりなのだろう。」(第2部、4-5-1)
「罪は存在しない。」(第2部、4-5-5)
「ああ、聖なる神の子よ、いったいいつまで、あなたはそれを続けたいのだろう。」(第2部、4-5-8)
私は、この考えに光を感じている。
だけど、概念的な罪ではなくて、自分の身に起きたことには、たちまちわからなくなってしまう。
こんなことが起こったから → 私はこんな思いになる。
この公式を手放さないかぎり、私はこの幻想ループから抜け出すことはできないんだろう~と思う。
罪はない。これは素晴らしい朗報ではないだろうか。