2019-01-30
今さらながらの“怯えているエゴ解体講座”
おもてなし英語講座の第3回目。他の参加者の方とのレベル差を知った私は参加するのがイヤになっていた。
なによりコミュニケーション自体が怖かった。
そもそも申込時から想像できたこと。
まず自己紹介的なことがあるだろう。そこでは仕事や家族、趣味などについて質問し合ったりするだろう。その時にプレゼンできる触りのいいことが私には思い当たらない。。。
バツイチ独身家族なし、無職状態、若くない、内向き…
どんな音楽が好きかとか、あるいはどんなスポーツをやっているかとか…そういうのも答えようがなくて、さえないつまんない人だなと思われるのが怖かった。
でも、怯えているのはエゴで、これはそんなエゴを解体することこそ、この講座の目的なのだと気づいたら、見え方が違ってきた。
これは赦しのチャンスに他ならない。恐怖心や劣等感が浮かび上がったらその都度赦し手放せばいいのだ。
先週やった二人組になってみんなにパートナーさんを紹介する他者紹介、私とパートナーさんはまだだった。続き、今週はもうやらないかなと思っていたら、やった。
先生が「Next」と言われるのに躊躇していたら、結局最後になってしまった。
取り繕ってもしゃべれば、英語スキルは丸見え。みんなの前で下手なりに他者紹介を済ませられたら、すっきりした。
来てよかった。
参加しなかったら、低くなっている社会的自己評価がますます低くなっただろう。
「説明できる自分がない問題」だって、エゴが問題だと思っているだけで私の内に恐怖心や罪悪感がなくなれば、見え方はずっと違ってくるのだろう。
ACIMワーク240‐恐れはいかなる形においても正当化されない。
レッスン240は、私にはとくに沁みる主題概念だ。
「恐れは偽瞞である。それが証言していることは、あなたが、決してありえない姿の自分自身を見たということと、それにより、あなたがありえない世界を見ているということである。」(L240-1-1,2)
「それは、自分自身についてあなたが抱いている幻想を証ししているにすぎない。」(L240-1-5)
「私たち一人ひとりが愛そのものの一部なのだから、私たちの中に恐れはない。」(L240-1-8)
重要箇所に線を引いているうちに全部になってしまう。
自分ではACIMを継続して前より恐れを手放せているつもりだけど、私の対人(対世間)恐怖って強いんだな~と改めて思う。
これまではわりとペルソナ(仮面)をうまく使えてきたほうだから、生身の傷つきやすさに直接触れないで済んできたのだ。
でも仮面はいつまで経っても仮面だし、それでは生きたことにならない。
「恐れはいかなる形においても正当化されない」は、「怒りは決して正当化されない」(T-30.VI.1)とともに、私にはとっても大事な概念。おまじないと言ってもいい。
よくよく覚えておこうと思う。