ACIMレッスン239-私の父の栄光は、私の栄光である。

2019-01-29

まんだらぬりえ

日曜日、月1の色彩ワークショップで、持ち回りでファシリテーター役をやっているが、今回は私の番。

それで「マンダラ塗り絵」をやった(「まんだらぬりえ」とひらがなで書くほうがしっくりくる)。

何のことはない。本からコピーしたマンダラ下絵の中から気に入ったものを選んで塗るだけ。

本は10年以上前に買っていたのだけど一度も使ったことはなかったのだ。

マンダラとはユング心理学でも出てくる概念。自己(自我ではなく本来の自己のようなもの)を投影したものとみる。これを塗って仕上げていく過程で満たされ癒されていくのだという。

ワークショップでは近況をおしゃべりしながら塗った。選ぶ図柄、選ぶ色が違うから、それぞれちがうマンダラに仕上がっておもしろかった。

これで勢いづいたのか、昨晩小さくプリントし直し塗り絵した。

何にも考えずただ塗るだけ。配色もテキトーだ。

意外と時間がかかる。40分位かかったかもしれない。もっと単純な図柄にすればよかった。

できた塗り絵をダイソーで買った100円額縁に入れてキャビネット棚の上に置いた。

少し遠目に見ると塗っていた時とはまた違う印象になる。

文字どおり「こころ模様」なのかな。ちがうパターンも塗ってみたくなった。

ACIMワーク239‐私の父の栄光は、私の栄光である。

神がご自身の栄光を分かち合う人々の中に、わずかでも罪や罪悪感を見ることなどできるだろうか。」(L239-1-3)

神が、わが子は創造されたときのままであると知っており、わが子をまったく変わりなく永久に愛しているのなら、私たちがそこに含まれないということがあるだろうか。」(L239-1-4)

この反語が力強い。

気づけば、自分はダメ人間だと罪悪感を感じてしまっている私は、それでもやはり罪悪感を背負いながらも慰められる。

私が罪悪感を感じているのは中途半端だからというのもある。

自分が思うことをそれが共感を得られるかどうかに関わらず、表すことができていないから。

yesであれnoであれ、尊敬されようが軽蔑されようが、正しいかどうかもさておき、怖れなく表明できたらもっと自信が持てるだろう。

そういう意味で過激なことを言ってもシレっとしているホリエモンとか密かに憧れる。

「この世は幻想」とするACIMについて話そうとすると、すべての人を敵に回すかのような底知れぬ恐怖感がある。

でも、私はほんとうはどうありたいか。

ほんとうは何をしたいのか。

そう考えたら、この体をもった今回の人生で、自分の思いに沿って矢面に立ちたいのだな~と思う。それがどういうかたちかはわからないけれど。

だとしたら…

自分のアンテナに従って、少しでも反応したことをやってみる。

また人に喜んでもらえそうなことも、やってみる。

…ということかなぁ。