ACIMレッスン235-私が救われることが、慈悲深い神の意志である。
2019-01-17
『奇跡講座』に目標はいらない!?
土曜日のダイアリーに英会話教室で作った「今年の抱負(目標)」を書いたが、あとで「目標」という概念はやっぱり『奇跡講座(ACIM)』には重要ではないのかなと感じた。
「目標」とは欠けている状態から完璧へとめざす道すがらの指標で、やはりエゴからの発想だから。
たぶんすでに完璧であるということに気づくことが大事なんだろうな、聖霊さんの導きを得ながら。
だから、リラックスして恐怖感や罪悪感、攻撃や非難したい気持ちに気づいたらその幻想性を思い出して赦し手放し、思いつくことややりたいことがあったらその気持ちに従う、それでいいんじゃ…と。そう思った。
まぁ、それが難しいんだけど!
ついコントロールしたくなってコントロールはしきれないものの、何かせざるを得ない。それはエゴの性質だとは思うけど、体をもって生きている限りそこからまったくフリーになることは不可能なのかもしれない。
ACIMワーク235‐私が救われることが、慈悲深い神の意志である。
L235はとっても優しい。
私は過去に「自分は幸せになってはいけない」という自己暗示をかけたようで、無意識のうちに自分に似つかわしい不幸を求めていた。そして中年の転機といわれる40代半ばにそのことに気づいた。
気づいたらすぐその暗示が解けるというわけではないから、L235で、
「私が為すべきことは、ただ、自分を傷つけるように思える物事を眺め、全き確信をもって、『私がこのことから救われることが、神の意志である』と言い、自分を安心させ、それらが消えてゆくのをじっと見ていることだけである。」(L235-1-1)
「幸福だけが私に訪れているとわかるためには、私に対する父の意志は幸福だけだと憶えておくだけでよい。」(L235-1-2)
と言ってもらえると、そうなのだと心に沁みこませることができる。
富山ではなく私こそが家意識に執着していた
このワークをやっていたのは1/4~9だったが、そこで気づいたことがあった。
それは、故郷の富山は家意識が強くて苦手だと思っていたのだけど、実は家意識が強いのは私だということだ。
二人姉妹の長女で幼い頃から周りから「跡取り姉ちゃん」と呼ばれ家を継ぐことを期待されてきた。
婿を取るというかたちで結婚したが1年で離婚。「家」を維持できなかったことへの罪悪感とくやしさ?みたいな感情があるのだと気づいた。
「○○家」やその「○○代目」というのはエゴが神の替わりとして私たちに勧めている儀であり、いわば偽似神にすぎないと思う。
だけど私はそれに長らく執着してきたんだ。。
家意識が強い故郷が苦手なのではなく、そこでちゃんとできなかった自分を否が応でも意識させられる場所である故郷が、苦手なのだ。
前夜母が入院して帰京を延期したために、1月6日の晩、母といっしょにテレビで「ポツンと一軒家」という番組を見ていた。
その時に自分の中の「家」への執着に気づいた。どのシーンがきっかけかは忘れたけど。
もちろんこれは赦すべきことだ。
長く無意識化で醸造されてきたものでなかなか手放しがたいものだと思うけど。
エゴの家への執着を手放さなければ、本当の故郷である神の家に安住することはできないのだから。