2019-01-05
明け方夢を見た。
新年を迎えて初めての夢だから、「初夢」と言えるのかな。
<2019年 初夢>
母とどこか旅に出ているらしい。
ひなびた質素な宿に着き、夕食に食堂でおにぎり3つとみそ汁をいただいた。
部屋は相部屋らしく、先客の女性がいた。40代位で旅慣れた様子だ。
しばらくすると宿の人がふとんを敷いていく。
私はその部屋に先客の女性と私たち母娘の3人で泊まるのだと思っていたが、そのうち人が増え女性ばかり10人ほどになった。一人客が多いらしい。部屋は10畳位。ふとんは6~7組。ここでみんなで雑魚寝するようだ。
私は泊ったことはないのだけど山小屋風?なのかな。
私と母は部屋の入り口のふとん1組あるところにいたが、2人で寝るには窮屈。隣の人は少しも動こうとはしない。
母はいらいらしだして、奥まったところに行き「私ここにする」と言う。
私は「だけど、お母さん、ここじゃ夜中にトイレに行く時みんなに躓いてしまうよ」と言っている。
この宿にはお風呂もないみたい。
母は次第に声を荒げていく。ちゃんとした寝床もないうえにお風呂もないことに怒っているのだ。「みんなお風呂も入らんていうがけ?」と私に詰め寄る。
最初に言葉を交わしていた宿泊客が、母に対してイラつきだした。
このスタイルに慣れているんだろう。
「ここでのマナーに従って」と母に注意する。
険悪な空気になっていく。
私は、母の背中をなでて
「お母さん、ごめん。私が悪いが(方言:悪いの)。ちゃんと見んだから。今度からもっとちゃんと揃ったところにするから、今日は収めて。ごめん、こめん…」と言いながら泣き出している。
老いた母への愛しさと、その母を満足させたかったという落胆の気持ち、母への「悪かった」という気持ちがまぜこぜだ。
ごめん、ごめん。
悪いのは私なが(方言)。
今度はきれいないいところにしよう。
お母さんが望んだようにできなくて、ごめん。
その気持ちが強まって目が覚めた。外はまだ真っ暗だった。
夢をノートに書いていたら、ゲンジツでも涙が出てきた
リアルな感情を伴う夢は久しぶり。
夢日記を書こうとペンを取ってからも、感情がこみ上げてきて涙が落ちてノートがべこべこになった。
母への罪悪感。
若いころからいろいろ面倒ばかりかけて、
お母さんが期待したり望んだりしたことはまったく満たせなかった。
ごめん…、申し訳ない。そんな気持ちと、
母をもっと喜ばせたかった、という気持ち。
そこに情みたいなものが絡んでいる。
冬の北陸に一人母を残して、今日、帰京せんという自分に負い目もあるのか…。
孫の顔を見せられず(家意識が強い富山県ではこれは大事)、
同居もしておらず、
せめて一緒に行こうと来た(夢の中の)旅で、こんな思いをさせてしまった…
そんな思いがあるなら、一緒に住めばいいのに、一人の時間がないと辛い私は一日中質問攻めの母についいらいらしてしまい、一つ屋根の下では住めないと思ってしまう。
大人になりきれなかった娘(昔よく言ったいわゆるアダルトチルドレン)が、老いても未だマザコンをこじらせている、といった絵か。
正しい例えなのかどうかわからないが、「ハリネズミのジレンマ」という言葉を思い出した。
これはまさに『神からの分離』の投影だ
一方で、ACIM的観点からみれば、これはまさに『神からの分離』を前提とした罪悪感の投影以外の何物でもない。
この世で、神はカリスマや親に投影されやすい。
これは私のエゴが見せているまさに夢であり、この罪悪感こそが私が手放すべく練習しているものなのだ。
と気づく。
母は、私の赦しの機会の権化か。ゲームでいうとボスキャラといったところか。
『神との分離』から来る恐怖感と罪悪感を赦すことがACIMの根幹だと思うが、恐怖感より罪悪感のほうがいろんな感情と絡み合っていて正体がみやぶりにくい。なので、赦しにくいように思う。
今年の精神的なテーマはこれかな、
母に対して感じている罪悪感を赦すこと。
今朝はちょっぴり優しくしようと意識したけど。5分と持たなかった。
母が接骨院に行っているこの時間、静かだ。外の雨音が聞こえる。