2019-01-04
友人との癒しのランチバイキング
昨日は30年来の友人と久しぶりに会い、ホテルのランチバイキング行った。
90分食べ放題だったけどおかわりすることも忘れおしゃべり夢中で、気づいたら残り時間30分を切っていた。
デザートだけは食べなきゃ。慌ててプチケーキを取りに行った。
レストランを出ても、ホテルのロビーで話し込んだ。
話の内容はたわいもない近況。健康話とITやスマホなどの“世の中に付いていけてない”話が増えたかな。
気が合っておしゃべりできるって、幸せ!
友は私が『奇跡講座』に関心があることも学んでいることも、もちろんその内容も知らない。
私たちは、生きている間この世の幻想のあれこれで忙しい。話をすることで、確認したり気を慰めたり。
次会う時には、今日の話の内容は忘れていて、またその時の話になっているだろう。
それでいい。
女子ならではの習性?、結果や成果を求めるためじゃなく、ただ純粋におしゃべりすることが楽しかった。
ACIMワーク233-私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる。
レッスン233では、「私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる」が主題概念だ。
神の導きにゆだねるには、まず心穏やかであらねば。
心静かであることも大事。
今朝は、母が家そばの接骨院に行っている30分の間にワークをした。そこまでは健やかでいい出だしだと思ったけれど、振り返れば母にいらいらしてしまっていた一日だった。
実家に滞在中は、気づいたら『奇跡講座』が意識から遠のいてしまっているが、今回もやっぱりそうだ。
母からの絶え間ない刺激に反応するも、そのうちだんだん疲れてきて何が何だかわからなくなる。
ACIMの教えはどこへやら。
ずっかり自分人生ゲームの主人公になりきって登場人物と組み交わして、実のプロデューサーが自分自身だということも忘れてしまっている。
自分の中での母とACIMの共存が、意外とテーマだったりするかな?
私のゲンジツ世界の中では、母が大きな仏像のように鎮座している。
それでも、昔より関係性が良くなっていると思うから、よしとしよう。
母にいらいらしてしまうのは、私が自分のエゴに固執しているからでもあるのだ(おそらく)。
私は、ただいらいらしたくてしているだけなのだ。
本来赦しの対象であるものと、戦おうとしている。
それは、どこか赦すまじと思っているから。
「父よ、今日、私は自分の考えをすべて、あなたに差し出します。
私は、自分の考えを何ももたずにいます。私の考えのかわりに、あなたの想念を与えてください。」(L233-1-2,3)
こういうことがちゃんとできたら、そんなにいらいらしないんだと、今ダイアリーを書いていて思った。
本当は今夜帰京予定だったが、母のパソコンがどうしたことかExcelもWordもプリンターも使えなくなっていて、それを直す(再インストール)ために、帰京日を一日遅らせることとなった。
これも意味あること(自分が作っている幻想)。
私は心が弱くまた狭く、すぐいっぱいいっぱいになってしまうけど、できるだけ優しく親切でいたい。
漠然としているけれど、それが2019年のなりたい自分かな。