ACIMレッスン240-恐れはいかなる形においても正当化されない。

2019-01-30

今さらながらの“怯えているエゴ解体講座”

おもてなし英語講座の第3回目。他の参加者の方とのレベル差を知った私は参加するのがイヤになっていた。

なによりコミュニケーション自体が怖かった。

そもそも申込時から想像できたこと。

まず自己紹介的なことがあるだろう。そこでは仕事や家族、趣味などについて質問し合ったりするだろう。その時にプレゼンできる触りのいいことが私には思い当たらない。。。

バツイチ独身家族なし、無職状態、若くない、内向き…

どんな音楽が好きかとか、あるいはどんなスポーツをやっているかとか…そういうのも答えようがなくて、さえないつまんない人だなと思われるのが怖かった。

でも、怯えているのはエゴで、これはそんなエゴを解体することこそ、この講座の目的なのだと気づいたら、見え方が違ってきた。

これは赦しのチャンスに他ならない。恐怖心や劣等感が浮かび上がったらその都度赦し手放せばいいのだ。

先週やった二人組になってみんなにパートナーさんを紹介する他者紹介、私とパートナーさんはまだだった。続き、今週はもうやらないかなと思っていたら、やった。

先生が「Next」と言われるのに躊躇していたら、結局最後になってしまった。

取り繕ってもしゃべれば、英語スキルは丸見え。みんなの前で下手なりに他者紹介を済ませられたら、すっきりした。

来てよかった。

参加しなかったら、低くなっている社会的自己評価がますます低くなっただろう。

「説明できる自分がない問題」だって、エゴが問題だと思っているだけで私の内に恐怖心や罪悪感がなくなれば、見え方はずっと違ってくるのだろう。

ACIMワーク240‐恐れはいかなる形においても正当化されない。

レッスン240は、私にはとくに沁みる主題概念だ。

恐れは偽瞞である。それが証言していることは、あなたが、決してありえない姿の自分自身を見たということと、それにより、あなたがありえない世界を見ているということである。」(L240-1-1,2)

それは、自分自身についてあなたが抱いている幻想を証ししているにすぎない。」(L240-1-5)

私たち一人ひとりが愛そのものの一部なのだから、私たちの中に恐れはない。」(L240-1-8)

重要箇所に線を引いているうちに全部になってしまう。

自分ではACIMを継続して前より恐れを手放せているつもりだけど、私の対人(対世間)恐怖って強いんだな~と改めて思う。

これまではわりとペルソナ(仮面)をうまく使えてきたほうだから、生身の傷つきやすさに直接触れないで済んできたのだ。

でも仮面はいつまで経っても仮面だし、それでは生きたことにならない。

恐れはいかなる形においても正当化されない」は、「怒りは決して正当化されない」(T-30.VI.1)とともに、私にはとっても大事な概念。おまじないと言ってもいい。

よくよく覚えておこうと思う。

ACIMレッスン239-私の父の栄光は、私の栄光である。

2019-01-29

まんだらぬりえ

日曜日、月1の色彩ワークショップで、持ち回りでファシリテーター役をやっているが、今回は私の番。

それで「マンダラ塗り絵」をやった(「まんだらぬりえ」とひらがなで書くほうがしっくりくる)。

何のことはない。本からコピーしたマンダラ下絵の中から気に入ったものを選んで塗るだけ。

本は10年以上前に買っていたのだけど一度も使ったことはなかったのだ。

マンダラとはユング心理学でも出てくる概念。自己(自我ではなく本来の自己のようなもの)を投影したものとみる。これを塗って仕上げていく過程で満たされ癒されていくのだという。

ワークショップでは近況をおしゃべりしながら塗った。選ぶ図柄、選ぶ色が違うから、それぞれちがうマンダラに仕上がっておもしろかった。

これで勢いづいたのか、昨晩小さくプリントし直し塗り絵した。

何にも考えずただ塗るだけ。配色もテキトーだ。

意外と時間がかかる。40分位かかったかもしれない。もっと単純な図柄にすればよかった。

できた塗り絵をダイソーで買った100円額縁に入れてキャビネット棚の上に置いた。

少し遠目に見ると塗っていた時とはまた違う印象になる。

文字どおり「こころ模様」なのかな。ちがうパターンも塗ってみたくなった。

ACIMワーク239‐私の父の栄光は、私の栄光である。

神がご自身の栄光を分かち合う人々の中に、わずかでも罪や罪悪感を見ることなどできるだろうか。」(L239-1-3)

神が、わが子は創造されたときのままであると知っており、わが子をまったく変わりなく永久に愛しているのなら、私たちがそこに含まれないということがあるだろうか。」(L239-1-4)

この反語が力強い。

気づけば、自分はダメ人間だと罪悪感を感じてしまっている私は、それでもやはり罪悪感を背負いながらも慰められる。

私が罪悪感を感じているのは中途半端だからというのもある。

自分が思うことをそれが共感を得られるかどうかに関わらず、表すことができていないから。

yesであれnoであれ、尊敬されようが軽蔑されようが、正しいかどうかもさておき、怖れなく表明できたらもっと自信が持てるだろう。

そういう意味で過激なことを言ってもシレっとしているホリエモンとか密かに憧れる。

「この世は幻想」とするACIMについて話そうとすると、すべての人を敵に回すかのような底知れぬ恐怖感がある。

でも、私はほんとうはどうありたいか。

ほんとうは何をしたいのか。

そう考えたら、この体をもった今回の人生で、自分の思いに沿って矢面に立ちたいのだな~と思う。それがどういうかたちかはわからないけれど。

だとしたら…

自分のアンテナに従って、少しでも反応したことをやってみる。

また人に喜んでもらえそうなことも、やってみる。

…ということかなぁ。

ACIMレッスン238-救済のすべてが、私の決断にかかっている。

2019-01-24

あ゛~、みんなペラペラだよぅ

もてなし英語講座の2回目に出て、いきなりビビってしまった。

みんなものすごーくペラペラだ!!

あ゛~、私、場違いなこと来ちゃってるよぅ (;゜д゜)

だいたい私より上手だろうとは思っていたけど、こんなにみ~んながペラペラだとは!想定外だった。

現役の英語の先生や仕事で英語を使っている人などが参加されているらしい。こりゃ「中級」というより「上級」だな。

先生は第一言語ではないけれどもちろんペラペラで英語で自己紹介。その間もあるポイントでみんながどっと笑ったりしていたけど、私は9割方聞き取れず、

な、なんでみんな笑っているのー?(o’ω’o)?

あわあわっ、

見方を変えれば上達のチャンスでもあるのだけど、大いに怯えてしまった。

二人組になって自己紹介し合い、そのパートナーの紹介をみんなに発表している途中で時間になって、私とパートナーさんは次回にということになったけど、大丈夫かな?いやダメだ(>_<)

何を怯えているのか。

おそらく下手な自分をさらしてエゴが傷つくのが嫌なんだ。実力をそのまんま出すだけだから身構えることもないのにね。

もうひとつ。参加している方は、一様に外交的でコミュニケーションスキルが高く好奇心旺盛(に見える)。その場のテンションにもついていけてないんだ。

自分がネガティブ志向な内向型人間だと思い知らされる。

ありのまんまでぼーっとしていていいか。それとも頑張ってテンションあげるべきなのか。

そういうのが久しぶりで尻込みしたくなる。

あと6回ある。

旅の恥はかき捨てくらいの気持ちで挑めばいいんだろうな。

ひきこもりが社会に出るリハビリみたいなものか。

ACIMワーク238‐救済のすべてが、私の決断にかかっている。

私は物心ついた頃から、基本怯えているのかもしれない。

まず母に怯え、その先に現れた世の中に怯えた。

でも、ほどなく“人畜無害”だというペルソナ(仮面)を付けて出ていくことを憶え、それは学生時代も社会人になってからもうまく機能した。

私は見た目穏やかでそう自己主張しない(箸にも棒にもかからない)、しっかりはしていないけどまあまあまじめな人としてやれてきた(実際はどうであれ)。

仕事をしなくなり世の中に怯えていた自分の感じを思い出した。

これが私ですよとわかりやすく見せるべき自分を失った感じ。

そしてもともと自信があったわけではないが、社会的自己評価が下がった。

そうなのはどうでもいいと思っているけど、それは私が社会と接してないから意識しなくてよかっただけなんだ。

独身で子供もなく、そして仕事もなく…?

じゃああなたは何をしている人なの? 誰なの?

こういう怯えはすべてエゴの怯えだ。

それが浮かんできたときに、そんなものは幻想だと一つずつ手放していけばいいんだろう。

自分が自分をどう捉えるか。それは私自身の決断にかかっている。

私は大丈夫だ。

その根拠は何か。

だから今日も再び、私たちは動きを止めて、父がどれほど私たちを愛しているのかを考えてみよう。」(L238-2-1)

また、神の愛によって創造された神の子は、神にとってどれほど愛しい存在であり続けるかということや、神の愛は神の子の中で完全になるということについて、考えてみよう。」(L238-2-2)

ブログを始めて3年経った

2019-01-22

お~、丸3年

さっきふと思ってこのブログの最初の日を見てみたら、2016年1月20だった。

お~、丸3年経ってる!

そんなに頻繁に更新しているわけではないし、誰かに向けて有益な情報が届けられているわけでもない。

けどけど、私にとっては3年か~としみじみする。

ブログを作りたいとノートに呟いていたのは、たしか2015年の春ごろ。2015年中にはACIMワークが終わりそうだと思い、その後ACIMとつながり自己表現できるものが何か欲しいと思った。

ACIMについて感じたことを文章化していくことが次の学びのステップだと思ったのだ。

だけどそれから実際に始めるまでに1年近くかかった。

その年の6月父が亡くなり自分を取り巻く世界が大きく変わったし、その頃はまだ仕事もしていた。無料ブログサービスがいいのかWordpressがいいのか、どのテンプレートが自分の気分に合うかなどでもかなり足踏みしていた。

何より怖さで固まっていた。

これまでの人生で少数派意見を表明したことはない。自分でもよくわからないものをたとえ実名ではないにせよ、どう書いたらいいのか。まず、どんなスタンスで書くの?

誰かに見られたら?(ブログは見てもらうためのものだけど)

あるいは誰にも見られなかったら?

まだ“ちゃんと”理解できているわけではないし。。

頭おかしいやつと批判されたらどうしよう。。

などなど。

…自意識過剰って疲れる。

人生で「これだ」と思えるもの

実際書いてみると、パソコン画面の外に誰かがいるってことはほどなく意識されなくなり、書くことによって心と頭が整理されてよいことがわかった。

これがただノートにメモする方法だったら逆に続かないかもしれない。

ただブログを更新するということだけでも、私にとってはおおごとだし、私にとっては有益だった。

結局ACIMワークをもう一度やることになり、ただそれに付随して書いているだけで、本当はもっとACIMについていろいろ掘り下げたり感じたりしたかったけど、そういったそもそものことはできず。

でも、まあ、いいのだ。

昔、本多静六さんの本を読んで、「価値のある文書を毎日、原稿用紙1枚(14行32字詰め)以上書く」ということを25歳の時から習慣にしていると知り、すごいな~と思った。

本多静六博士はその結果生涯で376冊もの本を書いている。

「価値のある文書」というところが、私の場合はつらいところだけど、でもいい。

自分のA Couese in Miraclesのスタンプカード的に重なっていく感じがあって、気休めになるから。

何かこれだ、と思えるものが人生にほしいとずっと思っていて、それが得られてない感じがずっとあった。が、今は「ACIM」がそれだと思える。

そういうものに出会えたと思えていることが、幸せだ。

ACIMレッスン237-私は今、神が創造したままの私でありたい。

2019-01-20

日曜の昼に好物を食べてしあわせ

1月も半ばをすぎた日曜日。ようやく2019年に立てた気がしている。窓から入る日差しが眩しい。

お昼は好物のトムヤムクンヌードル。

本格的な酸っぱ辛さがやみつきなのだ。

食べ物をストックとしておけない質で、あればすぐ食べちゃう。あまり体に良さげとも思えないからたまにしか買わない。

日曜の昼のぼわんとした時間にこのちょっぴりジャンクなお気に入りを食べるのは、ささやかな至福だった。

スープまで全部飲み終えた後、栄養表示に目が行った。「塩分5.0g」とある。このカップヌードル1個で5gとは!おいしくてもスープは残しておくべきか。。

デザートは炊飯ジャーで作った蒸したてのさつまいも。

炊飯ジャーで簡単にできると知ってから、できたてのあつあつをふーふー言いながら食べるのが楽しみになっている。

ほくほくというよりねっとりだったが、甘くておいしかった。

残りは部屋の隅で干し芋に。水分が飛んで一段と甘くなる。

これも完成まで取っておけずつまみ食いしちゃう可能性大だけど。

ACIMワーク237‐私は今、神が創造したままの私でありたい。

結局のところ私はいつも同じようなことを訴えている。

ACIMを歩みたいが聖霊の導きとエゴの間で葛藤があること。

そもそも聖霊の声がちゃんとキャッチできているかわからないこと。

ACIMの理解の仕方も独りよがりで間違っているんじゃ…?と。

そんなことをずっと言いながらも、ACIMから離れずにワークブックをしていればいずれACIMの思考が浸透して自然に前進できているんじゃないかとも期待している。

実際はどうなっているんだろう。自分のことは客観視できない。

世間の目で見たら、成長どころか大いなる堕落だとはわかる。のだけど。

そんな私に、レッスン237の主題概念は素直に響いた。

私は今、神が創造したままの私でありたい。

そう、そうなんだ。

私はACIMの道のどこらへんにいるかな。

道しるべは聖霊さんの声なのだけど、それに従ったり耳栓をしていたりの私は迷子になったりしていないだろうか。

父なる神が私に語る救済の知らせを、世界に伝えよう。」(L237-1-3)

ここが今回このレッスンを読んでもっとも惹かれたところ。

私が自分の感じていることをもっと素直に語らなければ、私が見る世界も変わらない。

私のこれまでの人生では、“世間恐怖症”で素の自分を出すのをとても恐れてきた。

自分を出さないでいるのは楽どころか、逆にとてもエネルギーを要した。

もういい歳だし余計なエネルギーはない。

もっと素直に自分を表現したら?

それが「神が創造したままの私」だったら、とっても素敵なことなんじゃないか、と思う。

ACIMレッスン236-私は、自分だけが統治できる自分の心を統治する。

2019-01-18

『神の使者』をまた初めから

きのう掃除をし始めたら、気づいたら大掃除になっていた。

いつもわりとまめに掃除しているし引っ越してまだ7ヶ月、不要なものもないと思っていたけれど、知らないうちに未処理物、未分類物がここかしこに溜まっていて重たくなっていた。

物をこれ以上増やすまじと思うけど、気づくと増えてるんだよな~

ようやく世間の人の年末大掃除の頃にたどり着いたのかもしれない。

遅っ、

相変わらずだけど。

夜には『神の使者』を再読し始めた。この本は古いバージョンの本を3冊持っていてそのうちの1冊が日頃読む用(あとの2冊は予備)。

また、アーテンとパーサがゲイリーの前に現れたところから。

何かの変わり目にはつい読みたくなるのだ。『奇跡講座(ACIM)』を学ぶきっかけとなった本だから、その動機みたいなものを確認したくなるのかもしれない。

私の『神の使者』は付箋とマーカーだらけだ。

黙読しながらマーカーを引いた部分は音読するのが自分の中での流行りになっていて、そうやっているとこの分厚い本を読み終えるまでやたら時間がかかってしまう。そのうちに日常にまみれて中断してしまうこともままある。

ここは戻りたくなるところ。だからそれでいいのかもしれない。

私はACIMというより『神の使者』を信じている(というかすがっている)のかもしれないと思う。

ACIMワーク236‐私は、自分だけが統治できる自分の心を統治する。

L236で気になったところ。

今日、私は心の働きを聖霊に差し出し、聖霊がふさわしいと思うものに使ってもらう。」(L236-1-6)

そのようにして、自分の心を自由にし、神の意志を行えるようにする。」(L236-1-8)

私はやっぱり聖霊さんのメッセージが受け取れているかどうかわからない。

いや、受け取れているけれど聞きたくないものには耳をふさいでいるのかもしれない。だから、わからないと言っている気もする。

耳元で大声でくりかえし叫んでいるのに、私がただぼんやりしているのだとしたら、聖霊さんは呆れているのではないだろうか。

もう私をサポートするのに嫌気がさしたりしているのではないか。不安だ。

自分のエゴのものさしで確証が得られないことは受け取りがたい。

エゴのものさしと聖霊のものさしはまったく別だから、私は未だにその二つの間で揺れている。

少しずつでもこのコースの歩みを進めたい。

こう書いた時、「そのためには気づいたことをやる」というフレーズが頭に浮かんだ。

と同時に、怖っと感じた。

ACIMレッスン235-私が救われることが、慈悲深い神の意志である。

2019-01-17

『奇跡講座』に目標はいらない!?

土曜日のダイアリーに英会話教室で作った「今年の抱負(目標)」を書いたが、あとで「目標」という概念はやっぱり『奇跡講座(ACIM)』には重要ではないのかなと感じた。

「目標」とは欠けている状態から完璧へとめざす道すがらの指標で、やはりエゴからの発想だから。

たぶんすでに完璧であるということに気づくことが大事なんだろうな、聖霊さんの導きを得ながら。

だから、リラックスして恐怖感や罪悪感、攻撃や非難したい気持ちに気づいたらその幻想性を思い出して赦し手放し、思いつくことややりたいことがあったらその気持ちに従う、それでいいんじゃ…と。そう思った。

まぁ、それが難しいんだけど!

ついコントロールしたくなってコントロールはしきれないものの、何かせざるを得ない。それはエゴの性質だとは思うけど、体をもって生きている限りそこからまったくフリーになることは不可能なのかもしれない。

ACIMワーク235‐私が救われることが、慈悲深い神の意志である。

L235はとっても優しい。

私は過去に「自分は幸せになってはいけない」という自己暗示をかけたようで、無意識のうちに自分に似つかわしい不幸を求めていた。そして中年の転機といわれる40代半ばにそのことに気づいた。

気づいたらすぐその暗示が解けるというわけではないから、L235で、

私が為すべきことは、ただ、自分を傷つけるように思える物事を眺め、全き確信をもって、『私がこのことから救われることが、神の意志である』と言い、自分を安心させ、それらが消えてゆくのをじっと見ていることだけである。」(L235-1-1)

幸福だけが私に訪れているとわかるためには、私に対する父の意志は幸福だけだと憶えておくだけでよい。」(L235-1-2)

と言ってもらえると、そうなのだと心に沁みこませることができる。

富山ではなく私こそが家意識に執着していた

このワークをやっていたのは1/4~9だったが、そこで気づいたことがあった。

それは、故郷の富山は家意識が強くて苦手だと思っていたのだけど、実は家意識が強いのは私だということだ。

二人姉妹の長女で幼い頃から周りから「跡取り姉ちゃん」と呼ばれ家を継ぐことを期待されてきた。

婿を取るというかたちで結婚したが1年で離婚。「家」を維持できなかったことへの罪悪感とくやしさ?みたいな感情があるのだと気づいた。

「○○家」やその「○○代目」というのはエゴが神の替わりとして私たちに勧めている儀であり、いわば偽似神にすぎないと思う。

だけど私はそれに長らく執着してきたんだ。。

家意識が強い故郷が苦手なのではなく、そこでちゃんとできなかった自分を否が応でも意識させられる場所である故郷が、苦手なのだ。

前夜母が入院して帰京を延期したために、1月6日の晩、母といっしょにテレビで「ポツンと一軒家」という番組を見ていた。

その時に自分の中の「家」への執着に気づいた。どのシーンがきっかけかは忘れたけど。

もちろんこれは赦すべきことだ。

長く無意識化で醸造されてきたものでなかなか手放しがたいものだと思うけど。

エゴの家への執着を手放さなければ、本当の故郷である神の家に安住することはできないのだから。

おもてなし英語講座 初回

2019-01-16

おもてなし英語講座が始まった

帰省中に歯の詰め物が取れてしまっていたので、きのう直近でお世話になった旧居近く歯医者さんに行った。

15年住んだ街並みは懐かしかった。スーパーに寄ったら見慣れたお客さんの顔があって、ことスーパーに関してはまだ断然こっちのほうが落ち着くと思った。

よく使っていたけど今の住まいのスーパーでは見かけない、白だしを買ってショルダーバッグに放り込んで店を出た。

きのうは、区のおもてなし英語講座の初回でもあった。

初日はオリエンテーション。案内に「自己紹介のため30分の延長」とあった私は、てっきり英語で自己紹介するものと思い込み歯医者さんの後マクドナルドに寄って、英語での自己紹介文を四苦八苦して作ったが、日本語でだったので、ありゃ、と気が抜けた。

それでよかったんだけど。

第1回目は英会話にはまったく入らず、「外国人居住者が増加しているなか、いかに外国人コミュニティを盛り上げていけるか、多文化共生していけるか」というテーマの講義だった。

グループになって議論して、リーダー役になった人がグループの意見を発表した(初対面の方とこういうことするのがキンチョーする)。

私にとっては、ACIMの価値観を学びつつ自分がこの社会とどう折り合いをつけて生きていくか(ACIMの価値観というのも正しく学べているかわからないし)とのほうが大テーマで、正直そこまで気が回らないよーという気持ちだった。

でも、昨年末入管法の改正案が成立し今後5年間で最大34.5万人の外国人を受け入れることが見込まれているという。多文化共生というのは今度とっても大事なテーマになるだろう。

日本のこともっと知りたい

日本人同士で「あたりまえ」と思っていることは決してあたりまえではない。また日本人がなんとなく慣習的にやっていることで、理解できていないことも多い。

自己紹介のなかで「海外の方に神社とお寺のちがいを聞かれても説明できないから学びたい」と受講動機を語っておられた方がいたが、改めて問われると私も日本のこと文化にしても宗教にしても歴史にしても、よく知らないし説明もできない。

歳を重ねてきた今、そういうことも知っておきたいなと思った。

多層化する社会

世の中には、性別、年齢、職業、考え方、専門分野・関心、趣味、所得層、などなど、さまざまなレイヤー(層)があって、あるものに属したり属さなかったりしている。国籍はそのレイヤーの一つに過ぎないんじゃ?

そしてグローバル化が続くと、国というレイヤーより考え方や関心によって、人の近しい遠いが強くなっていくんじゃ…?

さらにそれによって世界のあり様もどんどん変化していくだろう。

でもやっぱり「国」が根底にあるのかな、

などととりとめもなく考えた。

My New Year Resolution (新年の抱負)

2019-01-12

2019年最初の英会話教室はMy New Year Resolution

おとといの新年最初の英会話講座。教室に入ると黒板に「My New Year Resolution」。横に日本語で「新年の抱負」とあった。

Resolutionは、たしか(問題などの)解決と習ったような気がするが、「抱負」にも使うのか。直訳すると「今年の課題」や「お題」みたいな意味なのかな。

先生は、

  • Get in shape(体調を整える)
  • Start eating healthier food(もっと健康的な食事を始める)
  • Give up smoking(タバコをやめる)
  • Spend less time on social media(snsに使う時間を短くする)

などなどたくさんの例を書いたプリントをくださった。裏面にも抱負の例がずらり。数えてみたら55コも例文があった。

「Eat vegetarian one day a week(週に一度はベジタリアンの食事をする)」などあまりにも具体的なものもあって、これはやはり「抱負」というよりは「目標」とか「やりたいこと」に近いんじゃ?

先生は、このリストの中で自分にも当てはまるものに○をつけて、それから、その下に自分のオリジナルのResolutionを5つ書きなさいとおっしゃった。

ACIM的に見れば、目標や課題は何かが欠けているとの発想の上に立つ。

本来の自分はすでに神の子として完璧なのだから、それに気づけばよいだけということになるだろうが、ここは英会話のクラス。具体的な目標を考える。(私は「新しい私」を祈りの祭壇に捧げており、ここでも矛盾しているが。)

先生はみんなの周りをまわって、それぞれの英訳をサポート。それから、一人ひとり発表となった。

こういう類のものは「さぁ、今年の目標を5コ挙げるぞ」と身構えてしまうと私のような完璧主義かつ怠け者タイプは逆にやりづらい。何でもいい、短時間に挙げよというほうがいいのかもしれない。

オリジナルの目標

そこで私が書いたのが、これ。7つになってしまった。

 Make up business system to earn money through Internet(インターネットを使った儲けのしくみを作りたい) 
  Be concerned about my mother's health (母の健康を気遣う)
  Learn Japanese modern history(日本の近代史を学びたい)
   Use my new personal computer well(新しいパソコンを使いこなせるようになりたい)
  Ageing gracefully(優雅に歳を重ねたい)
  Cure a symptom of frequent urination(頻尿を治したい)
  Make up my original picture book(自分で絵本を作りたい)

 

期せずして、今年の目標ができた

短時間で思いつくまま書きなぐった。心のままに書けたかもしれない。

のネットを使った収入のしくみづくりは、ずっと何年も前から思っていること。だけどサイトづくりを少しかじるだけで何にもできてない。

まず商品がない。またこれからシニア世代に入る私にネットを使ったことができるのか。(優先順位:高)

…「母の健康を気遣う」とは抽象的だけど。東京に戻ってきてから、黒ニンニクとお腹のハリを抑える薬ガスピタンと松山千春のCDを送ったら、喜んでくれた。(優先順位:高)

…歴史は男の人ばかり活躍している印象から、あまり興味がなかったけど、歳とると昔に意識が向く。黒船が来航したあたりからどう変わっていったのか、なぜ戦争せざるをえなかったのか知りたくなった。(優先順位:低)

…新しいノートパソコンを買ったけど使えてない。デスクトップ型パソコンのキーボードのほうが使いやすくて。でもやがてWindows7のサポートも終わることだし、使えるようになりたい。(優先順位:中)

…「Sucsessful aging」と書いていたら、先生が「gracefully」を使ったほうがいいと教えてくださった。抽象的だけど。(優先順位:中)

…⑤とギャップがあるけど、逆に⑤を満たすにはこれが大事ともいえる。若いころからトイレが近かったから慣れっこになり放置しているが、今年は改善したい。(優先順位:高)

…絵本の作り方の本も買ったことだし。そんな気概はないのだけど思いついて書いた。(優先順位:低)

 

英会話教室に出たら、期せずして今年の目標ができた。

7つ位だったら私でも覚えていられるかな。

その中で優先度高いのは3つだとわかったし。3つなら私でも覚えて…?実行できるかどうかは自信ないけど。覚書。

 

ACIMレッスン234-父よ、今日、再び私はあなたの子です。

2019-01-11

連続晴れ、乾燥注意報。うつ抜け?

東京は晴れ。乾燥注意報。

12月24日以降、雨や雪が観測されず明日も晴れ予想で、これは歴代3位の記録だとか。

私は東京の冬の空が好きだ。18の時初めて受験で2月の東京に来て、空が明るく澄んでいるのにびっくりしたのを、また思い出す。

あの時は父が付き添ってくれたのだった。

北陸の冬は日照時間も少なくセロトニンも出にくい。うつになりやすいと思う。

うつ…といえば、数年前とっても動きづらい時があって、メール1通出すにもエネルギーを溜めて頑張って出すといった時期があった。

医師に診てもらったことはないのだけど、あれはやはり抑うつ症状と言うのだろう。何年もちょいちょい動けなくなったいたから、いわゆる更年期と関係することか。

エネルギー不足は変わらないけど、それがすこーし回復している気がする。

外出した日は帰宅後2時間位動けないことも多かったけど、その時間が少しだけ短くなったような?

膨大なエネルギーを使う引っ越しなんて無理かと思っていたけど、それも何とかできたし。

更年期もそろそろ抜けようとしているのか。

もう少しアクティブになれたら…

ACIMワーク234‐父よ、今日再び私はあなたの子です。

レッスン234はちょうど年末年始やっていたワーク(一応やってた)。

父よ、今日、再び私はあなたの子です。

これは、自らのアイデンティティを高らかに宣言する主題概念であり、「私が私になる」というテーマだ。

去年からワークの終わりに「祈りの祭壇」をイメージして、そこにお願いというかたちではなく「自分の問題や目標や偶像を贈り物として祭壇に捧げる自分を想像する(『神の使者』13章より)」ということをしている。

そこで捧げているものの一つが「私の新しい人生」だった。あまりに漠然としていて、どう新しいのか自分でもわかっていないのだけど、そう捧げていた。

このワークをして、その「新しい人生」には、まずレッスン234の「私が私になる」(神の子としての自分になる)ということが不可欠で、それが先だと感じた。

常に、神の子なる自分を忘れないこと。

まあ、たいがい忘れているけれど。

1月3日のメモには、

「すべては私が見せているものである。

怒りの対象は、怒りではなく赦しを求めている。

赦しが出口だ。

挑発に乗らない。

怒らないこと自体が目的。」と書いてあった。

帰省後、数日過ぎて私も母もお互いに地が出て、リズムが合わなくていらいらしていたのだろう。(一人の時間が欲しい私は誰といても疲れてしまうのかもしれない)

私ってー、いる場所、いる時間、一緒にいる人たちによって、すぐに自分が誰だかわからなくなってしまう。

わからなくなっても、神の子だということだけ覚えていられたらいいのかもしれないが、そうはいかずエゴで固めた自分をどうにか思い出そうとあがく。

今も少しそう。しゃべればしゃべるほど、堕ちていく…気分の今。

まあ、ぼちぼちいこう。

2019年の東京生活スタート

2019-01-09

7日の昼すぎ東京の自宅に着いた。

母に着いたよ、と電話を入れたら、

「あんた、3日も遅く帰って…ちゃんと仕事あるがけ?心配やわ」と母。

最も痛いところを突かれ、かっとした私は、

「具合悪くなったお母さんのせいやにか!」と答え、それだけでは済まず、

「だいたいお母さん、あったまおかしいよ!入院した次の日お腹大丈夫?って聞いたら、腰痛いって言って。普通は、お腹のこと言うでしょ!良くなったとか、痛み取れたとか。」

と言い放ってしまった。

せっかくお正月を穏やかに過ごせたと思っていたのに…。暴言をぶつけてしまった。反論するにしても「あったまおかしよ」は余計だった。

攻撃を受けたように感じそれをかわすだけではなく、瞬時に戦闘モードに入ってしまったのだ。

その時は、神さまも聖霊さんも寄せつけなかった私。

は~、1年365日24時間の赦しには、まだ果てしなく遠いと思い知る。

近しい人ほど、感情を揺さぶられる。

ことに母には。

本当は、元気になってくれたことだけでありがたいはずなんだけど。

実家と東京の家では、自分のなかで稼働しているデバイス?ソフトウェア?がちがう気がする。切り替えて、そうそうここではこうだったと思いだすまでに少し時間が要る。

そして、多少出遅れたが、ようやく昨日から、私の2019年東京生活がスタートした。

頭でっかちなACIM学習に少しずつ実践が伴いますように。

母、緊急入院!?

2019-01-07

帰京日、母腹痛で緊急救命センターへ

4日の切符をネット予約してあったが、母のパソコンの調子が悪くそれを回復させるべく、帰京を5日に変更していた。

しかしー。

5日の午後、施設に入居している伯父(母の兄)のお見舞い後ランチを食べて帰った午後4時あたりから、母の調子がおかしくなった。

お腹が痛いと言う。

腹痛は誰にでもあるが、私が家を出なくてはならない夕方6時になっても治るどころか、ますます痛むらしい。

どうしたものか。

土曜日の午後はどの病院も休診だ。

しかし、ますます苦しんでいる母。放っておくわけにはいかない。

緊急救命センターに電話してみたところ、「来てください」とのことでタクシーで向かう。

センターには大勢の人がいてびっくりした。待合室で待つも、激しく痛がっている母は中に入れてもらってベッドで待機することに。

10床位あったベッドもほぼ患者で埋まっている。泣きじゃくっている赤ちゃんもいる。

1時間位待ったところで、穏やかそうな男性医師が来られて、痛がる母のお腹を触診、「急を要する危険性おそらくなし」とのだったが、血液検査とレントゲンによる検査をすることに。

1時間位待ったところで、血液検査、レントゲン検査を実施。

それから、また待つこと1時間。母の痛がり方はどんどん激しくなっていく。

人手も限られているなか、看護師さんはテキパキと動かれている。「5分後、救急車到着します」とのアナウンスがあり、場に緊張が走っている。

そのまま入院することに

それから、また1時間位たったところで、医師から私が呼ばれる。

レントゲン画像を見ながら、「これが胃で、これが腸ね…」

何を言われる?と、体を硬直させ身構える私。

「ぜんぶきれいですね。多少ガスが溜まっているけど、血液検査、レントゲンとも異常なしです。」

ほっとする。よかった。

「何か変わったことは?」と聞かれ、「特にありませんが」と前置きしつつ、今日、私がお正月帰省から自宅へ戻る予定だった旨を話すと、「あ、そのやつね。今日も5人位、そういう方来てるよ」と。

そのやつってー?

「アルプスの少女ハイジ」でクララが足は悪くないのに歩けなかった、みたいなやつ?まさか??

母にレントゲンも血液検査も問題なしと伝えるが、本人はますます痛む様子。「昼食べたものが悪かったに違いない」と言い、浣腸して出したいと言う。

それを伝えに行くと「浣腸することで満足なさるなら、しますが」と医師。

浣腸後も、ますます派手に痛がる母。

私に「何とかしてー」というが、職員の皆が忙しそうな中で「検査で異常なし」となった老女にかまける暇がある人はいない。

私は、痛み止めだけでも、とお願いすることしかできなかった。

到着から約6時間後、緊急救命センターも落ち着いてきた頃、医師が「辛そうだし、家に帰っても眠れないでしょう、入院しますか」とおっしゃった。それから痛み止め?安定剤?の注射を打った後、入院の手続きとなった。

「たぶん翌朝退院できると思うから、10時に迎えにいらしてください。」

母がいない家の冷たさにたじろく

夜家に着いた時には、深夜1時を回っていた。

家はしんと静まり返っている。母がいない家に夜間に一人でいたことがなかったから、そのひとけのない冷たさにたじろいだ。

一日中あれやこれやと聞いてくる母にうんざりしていたけど、ここは母の声でうるさい場所、それでいいのだ、と思い返した。

お母さん、重病じゃなくてよかった。

それにしても、あの子供っぽい痛がり方とだだをこねる様。こんな人だったっけ?

翌朝母からの着信を見つけた。

電話すると「退院だって」と母。

「お母さん、お腹痛くない?もう大丈夫?」と聞くと、

「側弯症の腰の右、痛いが~」と。

なに?おいおい!

腹痛で入院したんだろうが!!

と呆れ果ててしまった。

お腹はすっかり治ったらしい。

帰宅後、コーヒーを美味しそうに飲んでいた。

これってお母さんと私の共依存劇場!?

これは、母と長時間同じ空間に過ごすのがしんどいと思いつつ意識下で罪悪感を持っている私と、

自律していて年の割にしっかりしていると思いつつ意識下で娘に甘えたいと思っている母の、

共依存が結晶してゲンジツ化した映像だろうか。

私がもっと母と居たいがために、母に腹痛を引き起こさせたのか。

ようやく1月7日。予定より3日遅れで東京に戻ってきた。

北陸新幹線から撮った日本海の空と、東京の空のちがうこと!東京の空はなんて明るいんだろう。

今年は、やはり母への特別な愛と罪悪感と向き合う年になりそうだ。

 

初夢ー「ハリネズミのジレンマ?」

2019-01-05

明け方夢を見た。

新年を迎えて初めての夢だから、「初夢」と言えるのかな。

<2019年 初夢>

母とどこか旅に出ているらしい。

ひなびた質素な宿に着き、夕食に食堂でおにぎり3つとみそ汁をいただいた。

部屋は相部屋らしく、先客の女性がいた。40代位で旅慣れた様子だ。

しばらくすると宿の人がふとんを敷いていく。

私はその部屋に先客の女性と私たち母娘の3人で泊まるのだと思っていたが、そのうち人が増え女性ばかり10人ほどになった。一人客が多いらしい。部屋は10畳位。ふとんは6~7組。ここでみんなで雑魚寝するようだ。

私は泊ったことはないのだけど山小屋風?なのかな。

私と母は部屋の入り口のふとん1組あるところにいたが、2人で寝るには窮屈。隣の人は少しも動こうとはしない。

母はいらいらしだして、奥まったところに行き「私ここにする」と言う。

私は「だけど、お母さん、ここじゃ夜中にトイレに行く時みんなに躓いてしまうよ」と言っている。

この宿にはお風呂もないみたい。

母は次第に声を荒げていく。ちゃんとした寝床もないうえにお風呂もないことに怒っているのだ。「みんなお風呂も入らんていうがけ?」と私に詰め寄る。

最初に言葉を交わしていた宿泊客が、母に対してイラつきだした。

このスタイルに慣れているんだろう。

「ここでのマナーに従って」と母に注意する。

険悪な空気になっていく。

私は、母の背中をなでて

「お母さん、ごめん。私が悪いが(方言:悪いの)。ちゃんと見んだから。今度からもっとちゃんと揃ったところにするから、今日は収めて。ごめん、こめん…」と言いながら泣き出している。

老いた母への愛しさと、その母を満足させたかったという落胆の気持ち、母への「悪かった」という気持ちがまぜこぜだ。

ごめん、ごめん。

悪いのは私なが(方言)。

今度はきれいないいところにしよう。

お母さんが望んだようにできなくて、ごめん。

その気持ちが強まって目が覚めた。外はまだ真っ暗だった。

夢をノートに書いていたら、ゲンジツでも涙が出てきた

リアルな感情を伴う夢は久しぶり。

夢日記を書こうとペンを取ってからも、感情がこみ上げてきて涙が落ちてノートがべこべこになった。

母への罪悪感。

若いころからいろいろ面倒ばかりかけて、

お母さんが期待したり望んだりしたことはまったく満たせなかった。

ごめん…、申し訳ない。そんな気持ちと、

母をもっと喜ばせたかった、という気持ち。

そこに情みたいなものが絡んでいる。

冬の北陸に一人母を残して、今日、帰京せんという自分に負い目もあるのか…。

孫の顔を見せられず(家意識が強い富山県ではこれは大事)、

同居もしておらず、

せめて一緒に行こうと来た(夢の中の)旅で、こんな思いをさせてしまった…

 

そんな思いがあるなら、一緒に住めばいいのに、一人の時間がないと辛い私は一日中質問攻めの母についいらいらしてしまい、一つ屋根の下では住めないと思ってしまう。

大人になりきれなかった娘(昔よく言ったいわゆるアダルトチルドレン)が、老いても未だマザコンをこじらせている、といった絵か。

正しい例えなのかどうかわからないが、「ハリネズミのジレンマ」という言葉を思い出した。

これはまさに『神からの分離』の投影だ

一方で、ACIM的観点からみれば、これはまさに『神からの分離』を前提とした罪悪感の投影以外の何物でもない。

この世で、神はカリスマや親に投影されやすい。

これは私のエゴが見せているまさに夢であり、この罪悪感こそが私が手放すべく練習しているものなのだ。

と気づく。

母は、私の赦しの機会の権化か。ゲームでいうとボスキャラといったところか。

『神との分離』から来る恐怖感と罪悪感を赦すことがACIMの根幹だと思うが、恐怖感より罪悪感のほうがいろんな感情と絡み合っていて正体がみやぶりにくい。なので、赦しにくいように思う。

今年の精神的なテーマはこれかな、

母に対して感じている罪悪感を赦すこと。

今朝はちょっぴり優しくしようと意識したけど。5分と持たなかった。

母が接骨院に行っているこの時間、静かだ。外の雨音が聞こえる。

ACIMレッスン233-私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる。

2019-01-04

友人との癒しのランチバイキング

昨日は30年来の友人と久しぶりに会い、ホテルのランチバイキング行った。

90分食べ放題だったけどおかわりすることも忘れおしゃべり夢中で、気づいたら残り時間30分を切っていた。

デザートだけは食べなきゃ。慌ててプチケーキを取りに行った。

レストランを出ても、ホテルのロビーで話し込んだ。

話の内容はたわいもない近況。健康話とITやスマホなどの“世の中に付いていけてない”話が増えたかな。

気が合っておしゃべりできるって、幸せ!

友は私が『奇跡講座』に関心があることも学んでいることも、もちろんその内容も知らない。

私たちは、生きている間この世の幻想のあれこれで忙しい。話をすることで、確認したり気を慰めたり。

次会う時には、今日の話の内容は忘れていて、またその時の話になっているだろう。

それでいい。

女子ならではの習性?、結果や成果を求めるためじゃなく、ただ純粋におしゃべりすることが楽しかった。

ACIMワーク233-私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる。

レッスン233では、「私は今日、自分の生活を神の導きにゆだねる」が主題概念だ。

神の導きにゆだねるには、まず心穏やかであらねば。

心静かであることも大事。

今朝は、母が家そばの接骨院に行っている30分の間にワークをした。そこまでは健やかでいい出だしだと思ったけれど、振り返れば母にいらいらしてしまっていた一日だった。

実家に滞在中は、気づいたら『奇跡講座』が意識から遠のいてしまっているが、今回もやっぱりそうだ。

母からの絶え間ない刺激に反応するも、そのうちだんだん疲れてきて何が何だかわからなくなる。

ACIMの教えはどこへやら。

ずっかり自分人生ゲームの主人公になりきって登場人物と組み交わして、実のプロデューサーが自分自身だということも忘れてしまっている。

自分の中での母とACIMの共存が、意外とテーマだったりするかな?

 

私のゲンジツ世界の中では、母が大きな仏像のように鎮座している。

それでも、昔より関係性が良くなっていると思うから、よしとしよう。

母にいらいらしてしまうのは、私が自分のエゴに固執しているからでもあるのだ(おそらく)。

私は、ただいらいらしたくてしているだけなのだ。

本来赦しの対象であるものと、戦おうとしている。

それは、どこか赦すまじと思っているから。

父よ、今日、私は自分の考えをすべて、あなたに差し出します。

私は、自分の考えを何ももたずにいます。私の考えのかわりに、あなたの想念を与えてください。」(L233-1-2,3)

こういうことがちゃんとできたら、そんなにいらいらしないんだと、今ダイアリーを書いていて思った。

本当は今夜帰京予定だったが、母のパソコンがどうしたことかExcelもWordもプリンターも使えなくなっていて、それを直す(再インストール)ために、帰京日を一日遅らせることとなった。

これも意味あること(自分が作っている幻想)。

私は心が弱くまた狭く、すぐいっぱいいっぱいになってしまうけど、できるだけ優しく親切でいたい。

漠然としているけれど、それが2019年のなりたい自分かな。

 

昔ながらのお正月

2019-01-02

あけましておめでとうございます、と新年のごあいさつをひとまず(^^)

元旦。

仏さまと神道の神さまと、天神さまにお雑煮をお供えして、手を合わせる。

神道の神さまと仏さまが共存しているところが、日本的。おまけに立身出世を願い学問の神さま天神さままで加えてしまうのは、富山県ならでは。

神さまと仏さま。そして天神さま。一見折り合わないように思うけど、先祖供養と子孫繁栄を願う気持ちでは一貫しているのだ。

 

それから母とお雑煮を食べた。

懐かしい味。おいしい。ほっこりする。

その後近くの神社に初詣に行った。神社は境内の外まで長い行列で、お参りするまで50分かかった。

おみくじも引いた。「小吉」だった。大きな飛躍をもくろむことなく、地味に地道に努力を重ねるべしとのこと。

 

ACIMワークのほうは、元日の朝からだめだった。

高齢な母は朝がとびっきり早く、起きている間休むことなく話しかけてくる。ひとり静かにいられる時間が見つけられなかった(母が就寝後の夜は何とかできた)。

二日の朝もしかり。

まあ、私のやる気が足りないのだけど。

10時からお寺から尼さんが読経に見えることになっていたので、そのお経を聞きながらワークをすればいいんじゃ?と思いついた。わが家は浄土宗だ。心の広い法然さんは許してくださるだろう。

尼さんの声は張りがあって美しく、目をつぶって聞きながら神さまと聖霊さん、父母に感謝した。心が洗われる気がした。

一人暮らしの私は、人とずっといるのに慣れておらず、一日中話しかけてくる母にワークでの感謝とは裏腹に、三日目にはもう疲れてしまった。

もちろんこれは私が映している幻像だ。

実家は赦しの機会の宝庫だと痛感。

「自分らしく」なっていると思っていたけど、母の前では撃沈。

今年も、相も変わらずここからスタートだ。