2018-12-29
故郷へ帰省、雪が降っている
昨夜、故郷の富山に帰省した。
東京は空気が乾燥して風が冷たいが、こちらはしーんと体に染み入る寒さ。寒さの種類がちがう。
でもやっぱり富山のほうが格段寒い。
母はいつもこの季節、郷土料理のかぶら寿司を漬ける。それも業者が使うような樽で大量に。それを親戚や近所の方に配るのだ。
今日はそれをおつかいで、配って歩いた。
いっつも、いっつも「今年はかぶらの質がいま一つだった」とか「ブリの塩がきつすぎて」など、“言い訳”を添えて配るのだ。
親戚から晩に「手間暇かかるものありがとう。今年のもおいしかった」と電話があり、母は上機嫌だった。
親戚のおばちゃんは、私に「たまちゃんもかぶら寿司作ることできるんでしょ?ちゃんとお母さんに習ってね」とプレッシャーをかけてくるが、私は一回も習ったこともないばかりか、作る場面に立ち合ったこともない。
手料理で周りの方に喜んでもらうのが好きだという母の性質は素晴らしいと思うけど、そういうところは受け継がなかったみたい。
私は一見優しげにいるけれど、実際に人に尽くしたり役に立ったりといったことが苦手だ。手料理や手仕事が上手な人、人に尽くすことができる人に引け目を感じている。
あ~、思えば、今年もあとわずか。
一年の区切りに意味があるような、ないような、でもやっぱり影響あるような。
大晦日から新年は、日本国民みんなで大縄跳びをしているみたい。一緒にその大縄を飛べなければ新しい一年に乗れない気がする。
混んだ新幹線での大移動、面倒だと感じる反面、行ける故郷があるのがありがたいとも思う。
ACIMワーク231-父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。
富山は、私にとってACIMから遠くなる場所だ。もちろん私の錯覚のなかでのことだけど。
一日中話しかけてくる母に反応しているうちに、ACIMの世界がどんどん遠くおぼろげなものになっていくのだ。
とりあえず、ワークブックだけ持ってきた。
朝晩のワークだけできればいいけど。
家族と密な時間を過ごしていると、神より家族が近く感じ、そもそも私は家族なるものの代わりに神を求めているのかなという気分になってくる。
家族や愛に恵まれていると、ACIM的なものに意識が向かわないのも無理はないのかもしれないと思う。
私は神さまもよくわからないのだけど、ただACIMの言っていることは理が通っている、と思う。
先が通じている。
ほんものだと感じる。
だから、どう行っても出口のないと感じるこの世のやり方ではなく、ただ幸せと感謝に満ちているACIMの教えに重きを置きたい。
ワークのメモを書いていたノートもちょうど新しいノートへの切り替わりで古いのは置いてきてしまったから、L231ワーク時にどんなことを感じたか(あるいは感じなかったか)思い出せない。けれど、母が寝静まった今の私の気持ちはL231のとおりだ。
「父よ、私はあなたを思い出すことだけを意志します。」
「あなたを思い出させてください。自分自身についての真理のほかに、何を望むことができるでしょう。」(L231-1-5,6)