2018-12-27
白いバラへの執着
クリスマスが過ぎると街は一気に年末モードになる。
お正月へと一直線だ。
ぼーっとしている私は土曜日のXmasシャンソンライブの帰りにもポカをした。
毎年ライブ出演者の方から帰り際、造花のバラを1本プレゼントされるのだが、帰り道そのバラを落としてしまったらしい。紙袋にさしていたのだが、枝の部分が長かったから何かに引っかかって落ちたのか…。
道中立ち寄った薬局で気づいて、あ゛~となった。
そのバラは、私のお気に入り。
本物みたいに優美。初めてもらった時は生花だと勘ちがいして半月くらい水を換えていたくらいだ。
過去3年間ライブに行ったから家には3本のバラがある。これまでは深紅だったけど、今年は白で、白も清らかでいいな~と喜んでいたのだ。
あ゛~(>_<)
造花のバラ1本のことだけど、お店には売ってないもの(過去ネットで調べたけど同様のものが見つけられず)。私は来た道を逆にたどって探したが、交番で聞いても、駅の事務室で聞いても、乗換駅で聞いても届け出なし(忙しい時期に瑣末なことごめんなさい!)
その後会った友人にも相談して、シャンソンライブのお店に、在庫がまだあれば譲っていただくことはできないかと聞いてみることにした。
ずうずうしいけど、あればラッキーだ!!
それで、おととい改めていただいてきた。おカネは要らないとの有難いお言葉…菓子折りだけ置いてきた。
それで、家には赤3本、白1本のバラがある。
我ながらたいした執着心だと思う。けど、心が華やぐ。うれしい。
救済とは何か
救済とは、最終的には神への道を歩むことができるという、神による約束だと説明されている。
最初神から分離して離れてしまった。それは勘ちがい。誤解だ。今も神の子は神とともにある。
だけど勘ちがいしたまんまの神の子の心は、離れてしまったままの世界にある。
だから、救済とはその勘ちがいの取り消しである。
「それは、何もしないことにより、夢と悪意の世界が維持されずに消えていくという意味で、取り消しである。」(第2部、2-3-1)
こう書いてあるってことは、私たちの世界では常に勘ちがいと幻想を維持するために、「何かをしている」ということになる。
それが、この世の出来事に対する判断や、自分を含めた誰かしらを非難することや、恐怖感や罪悪感をもつことなんだろう。
赦しによって勘ちがいと間違った知覚を取りなすことが、救済なのだ。
「幻想を維持しないことで、それがただ静かに塵と消えるままにする。そうすれば幻想が隠していたものが顕わになる。」(第2部、2-3-3)
正気を思い出すために、心の中の聖なる場所に訪れる、そのきっかけがワークなのだ。
できない自分を責めてしまったら、エゴの思うつぼ。いい、悪いと既存の価値観で判断することなく、鷹揚に構えていられたらいいんだろうなぁ(むずかしいけど)。
ゲンジツの世界で忙しくなると、心の中の聖なる場所なんて何言ってんだ、ってことになるから、忙しさがずーっと続く状況に陥らないということも大事かな。(こう書いていながら、怠け者の戯言…とツッコミたくなる私もいる。)