2018-11-26
幼馴染と会う
故郷にいる、小学校から高校までずっと同じ学校だった幼馴染が上京、東京に住んでいるもうひとりの幼馴染と三人で食事をした。
赤坂見附。20代の初め1年間、専門学校に通っていた町。
久しぶり。来ることないもんな~。
お店はほぼ満席で、みんな楽しげだ。都会の人はこうやって夜を楽しんでいるのか、とやけに明るい店内をキョロキョロ見回してしまった。
3人で会うのも数年ぶり。一人は故郷で専業主婦で男の子二人を育て、もう一人は東京でシングルマザーとして女手ひとつで娘さんを育て上げている。二人とも大人でえらい。
久しぶりだけど久しぶり感がないのが、幼馴染のいいところだ。
話が健康や病気の話になったり親の介護の話になったりするのが、不思議な気さえした。変わらないつもりでも仮初めの世で変わらないものは何もない…。
それぞれけっこうな人生の旅をしてきたなぁ、と感慨深かった。
おすすめのサラダを頼み、レタスやトマトにドレッシングがかかったものが来るのをイメージしていたら、見慣れない野菜が乗っかったカラフルな皿が出てきた。
「おー!最近のサラダはこうなっているのか」と驚いた。これは店に拠るんだろう。
おいしかった。
二人がそれぞれゲンジツ生活の中で努力を重ねて人生を築いているなかで、ふっと自分だけ迷子になっているような気もした。
別れてから、サラダの写真を撮るより三人で写真を撮ればよかった、と思った。
ACIMワーク226-私の家が待っている。急いでわが家に帰ろう。
私たちは、この世か、神か、そのどちらかしか手にできない、という。
私は神を選びたいと思った。
でも一方では、生まれてこのかた、この世しか知らないと思っているし、「自分自身」という個の存在にも執着がある。どっちつかずの状態にいる。
この世で頑張っている人を見ると、自分がただリトリートしていて肩身が狭く申し訳ないような気分になる。
あるいは、思いはそれなりのものであっても、やり方が間違っているのでは、となる。
昨晩は、この世の色のコントラストが濃く見えた。
そして、それはとても魅力的だった。
私は、この世に対して、ぼわーんとした反応の鈍い人間になっているな、と思う。
人から見たら、さそかしつまらない人間だろう。
「もし私がそう選ぶなら、この世界を完全に立ち去ることができる。」(L226-1-1)
私はこの世を完全に立ち去りたい、とは思っていないのかな?
この世はきらきらして見える。
一方で、私はこの世が天国につながるものではないことを知っている。
「天国がこのようにたやすく私のものになるというのに、虚しい願望や打ち砕かれた夢しかない場所に、どうして長居をする必要があるでしょう。」(L226-2-3)
そう、たしかにそうだ。
自分がその気になれば、そばにおられる存在に気づけるのだから、ただ見ることを志せばいいだけだ。
私の家が待っている。寄り道をせずわが家に帰ろう。