2018-11-20
ウォーキング中おカネを落とす
今朝は最初からつまづいた。
ウォーキング中おカネを落としたのだ。
ウォーキングには、いつもスマホと千円札と10円玉を持って出る。
10円は立ち寄る神社のお賽銭。千円札は帰りに24h営業のディスカウントスーパーに寄ることがあるから、その買物用。裸でズボンのお尻のポケットに、家の鍵と一緒に入れていた。
その千円札を落としてしまったのだ。
今日はスーパーには寄らずに帰宅。お尻のポケットから千円札を、、、
あれ、ない!
深めのポケットだ。大きなウサギのキーホールダーがついた鍵といっしょに押し込んでいて、お札だけ落ちたらしい。
キツネにつままれた気分だ。
情けないのは、これが今月二度目ってこと。
同じように、裸でズボンのポケットに入れていて、落としてしまった。その後、それじゃいかん、と小銭入れにもなるウサギのキーホールダーにお札を四つ折りにして入れていた。
けれど、今日のポケットは深いし、大きなキーホールダと一緒だし、大丈夫、と思っていた。
でも、ダメだったみだい。
え、でもどうなったら落ちる、お札だけ?腑に落ちない。
落とした千円札を探してウォーキング道を逆に
気が済まなくて、すぐ探しに出た。通勤者が多い道中にまだ落ちているとは思えなかったが、落としてしまった“罰”のようなもの。一応は探さねば。
来た道を逆に廻り、それから、お賽銭を出す時まではあったことを思い出し、神社まで行って、そこからまたいつもの廻り方で廻った。いつもの2廻り半歩いた。
通勤の方が足早に駅に向かうなか、道に千円札が落ちていないかうつむき加減で歩く私。
いったい何やってんだか!!
千円という、私にとっての大事なおカネを同じミスでまた失うなんて、という自責の気持ちと、人間以外の動物にとっては落ち葉とまったく同じ価値しか持たない紙を必死に探している私ってーという価値観に揺れた。
これは、すべて私が自身に見せている映画で、映画のなかのおカネがどう動こうと、映画でしかないのに!
おカネを落としたことが、実のところ「悪いこと」なのか「よいこと」なのかわからない。「よいこと」ではないと思うけど、水面下では何がどうつながっているかはわからない。
ただ私にわかるのは、晩秋落ち葉のなかに千円札という紙を探している中年無職女。。と言うシュールな絵在り、ということだ。
もちろん見つけられなかった。
二度あることは三度ある、というから気をつけよう。
ACIMワーク224-神は私の父であり、父は子を愛する。
こんな長文を書いた後に、ワークのダイアリーというのもなんだけど、とにかく今やっているワークに近づきたい。ダイアリーを待って、ワークの方が、足踏み状態なのだ。(どーでもいいことだけど。。)
レッスン224の、短い文言のなかの後半部分に共感して、線が引いてある。
「私は、自分がどこに行くのか、
誰なのか、
何をしているのかが、
わかりません。
父よ、
自分の見ている世界に疲れ果てた私に、思い出させてください。
こうしたもののかわりに、あなたが私に見せようとなさるものを、現わしてください。」(L224-2-2,3,4)
本当に…。神さま。聖霊さん。
こうやって書いてきて、ふっと思ったことが。
さっき「千円札という紙を探している」と打っていた時、パソコンが「神を探している」と変換まちがいした。
もしかして、これは、
落とした千円札を探すくらい熱心に神を探せ。求めよ、ってこと?
聖霊さんのアドバイスー!?
そんな皮肉を効かせたりしないよね?