2018-11-15
独り身には堪える冬!?近づく
急に寒くなってきた。街にはマフラーや手袋をした人の姿も見かけるようになった。
冬が来る!
北海道では昨日初雪が降ったとか。これは平年より22日も遅いらしい。北海道の冬は長い。
冬は、ひとり暮らしにとっては、きびしい季節だ。ひとりが気楽だといっても、クリスマスやお正月があるし、家族であったまろうという企画ががんがん流されると、やっぱり独り身の冷えを感じることも。(勝手だ)
同じひとり暮らしで無職や在宅ワークの方のブログを覗いたりしているが、その中に猫を飼っている方がいらして、うらやまし~、と思う。
あぁ、ソファに寝そべっているとき、にゃんこさんが私の胸やのど元のあたりまで登ってきて、どっかと座る感覚、また味わいたい。
当マンション、築25年経っているけれど、管理規約でペット禁止。ざんねん。
この前、エントランスで犬を抱えている方とすれ違ったけれど、あれは、いったいー??
飼っていいんなら、私もにゃんこさんにいてもらいたいなぁ。
今はぬいぐるみのにゃんこさんが、二人。
かわいくないところが、気に入っている。
ACIMワーク221-私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。
第2部では、「言葉はあまり意味をもたなく」なり、「演習を単なる出発点とする」とされている。演習を導入のきっかけとして用いて、「真理の直接的体験」を追求する。
説明文は難しいけれど、「概念はある程度学んだから、神そのものを感じることにワーク時間を使いましょう」ということだと思う。
レッスン221の主題概念の「私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。」というのは、まさに私に必要な祈りのことばだ。
ワーク中や意識がある時は、感謝して聖霊のアドバイスに従おうと思っているけれど、気づくと、不安と恐怖と罪悪感でぐるぐるしてしまっている。
ACIMっぽい自分と、ACIMっぽくない自分の間を行ったり来たりして、随分なエネルギーロスだと思う。
私が非常に疲れやすいのは、そのためのあるのかな。
実は赦したくないのだ、と気づく
一昨日の「赦すとは何か」のダイアリーに「ネガティブな感情を感じた時は、チャンス到来!なんだけど、私はその感情を感じること自体が嫌で、赦しのチャンスからも逃げている気がする。」と書いた。
あとで、それは私がとりもなおさず、「赦したくないからだ」と気づいた。
赦したくないと思っているから、赦しのチャンスに出会わないよう逃げ回っているのだ。
L221をやった際のワークのメモにも「私はACIMの勉強をしている体で、それは限定的なもので、その実エゴの殻に引きこもりエゴを守っていたのか?」とあった。エゴをさらに分厚くしているのだとしたら、あ゛~、それはまずい。
そして、その後に「ACIMを見つけられたのだから、自信を持て」とも書いていた。
揺れながら進むというのは、まだまだ続きそう。