2018-04-27
「喜びとは静かなものである」
先週、欲しかったもの(気に入った新居)が思いがけず手に入ったという喜びを感じていた。そして、とてもコーフンしていた。
エネルギーが乏しい方だから、そのコーフンで感情エネルギーを使い疲れ果ててしまい、土曜に懸案だった自宅マンションの売却まで決まった時には、うれしいんだけど反応する余力が残っていなかった。
レッスン186は、そういう最中の一週間に行った。
ワークをしている時、この新居は、自分に与えられた役割(聖霊には母のいる故郷に帰れと言われた気がしたことがある)に素直になりきれず、駄々をこねる子に対して聖霊が与えてくれた「おもちゃ」なのかもしれないと感じた。
手を引かれ、「ほら、家に帰るぞ」と言われているときに、縁日のおもちゃや雰囲気に魅せられ「まだ帰りたくない」という幼児に、「これ買ってやるから」と大人がなだめておもちゃを買い与えるように…。
そんなふうに感じつつも、一方ではやっぱりとってもうれしかった。
ワークでは、「喜びとは静かなものである」という声(メッセージ)も感じた。私が先週感じていたコーフンは、真の豊かさを反映した喜びとは異質なものなんだろう。
レッスン186-世界の救済は私にかかっている。
主題概念の「世界の救済は私にかかっている。」とは、いかにも大げさである。ワークブックにも「今日の主題概念は、その意味がわからないうちはひどく深刻なものに思えるかもしれない。」(L186-3-1)とある。
だけど、世界は、分離した(ことになっている)神の子が、それぞれの位置から映画を見ているにすぎないこと、自分の世界はただバーチャルリアリティ映画そのものであること。
その真実に目覚めることで見える「世界」が変わるのなら、この私が見ている世界の救済は私にかかっている、というのは、理にかなっている。
この考えを受け入れることは、謙虚さである。
この考えを否定することは、傲慢である。
「もし、神の声が、救済にあなたの役割が必要であり、そしてその全体があなたにかかっていると保証するのであれば、その通りであることに確信をもとう。」(L186-5-4)
聖霊はこの気づきをサポートしてくれている。しかしー
「聖霊が話すとき、あなたの自己像は自らの土台が崩れるのを感じて戦慄し、自分の知らない脅威に向かって攻撃しようとする。」(L186-7-2)
最近の私は(いや、ずっと前からも)こんな↑感じだ。
聖霊の声を聞いてしまったらー、ぼんやりとではなくクリアに感じてしまったらー「困る!」(それによって、私が仕切りたいと思っている人生の路線を変えなければならないから)と、ずっと思っている。
そして、ワークブックを学び、聖霊に耳を傾ける時間を取りながらも、同時に耳をふさいだり開けたりしている。
そして、垣間にもれ聴こえる声をかいつまんで聴いて、従ったふりをする。
あ゛…、自分でそこまで気づいているなら、もうそろそろ「ふり」はできなくなるな。
この世界を見せているのは自分だ、とワークを続けるなかで、私はより納得できるようになってきた。
「神の声が指示するとおりに行いなさい。もしその声があなたに不可能と思えることを求めるなら、誰が求めているのか、誰がそれを拒否しようとしているのかを思い出しなさい。」(L186-12-1)
神の声(聖霊の声)に素直に。
これが私のお題だ。
耳をふさいだり、開けたりしながら、聴こえないように「あ~」と自らの声を出している。
その声を静めて、ふさいだ手を下ろすこと。
そして、目前の赦しを実践していくこと(これがむずかしい)。
「この世界の救済は赦すことのできるあなたにかかっている。それがここにおけるあなたの 機能である。」(L186-14-5)
∠(`・ω・´)