2018-04-02
人間に許しがたきを許す、そこから先は神のためだと知らぬか
家の片づけに勢いづき、週末は家電を3つ近所のリサイクルショップに持ち込んだ。石油ファンヒーター、空気清浄機、加湿器…。値段が付いたのは加湿器だけで500円。
今やゴミの引き取りにもおカネが要る時代。十分だ。今朝は解体した本棚を粗大ゴミとして引き取ってもらった(1,100円かかった)。
物の処分でも手こずるのが、紙や書類だ。昔やっていた仕事やプロジェクト、勉強していたものの書類を見ると、時おり感情が揺れてしまう。今より若かった時代への懐かしさなのか、あるいは後悔も含まれているのか。揺れているのはもちろんエゴだ。
そうした昔の書類も、今の機会になるたけ捨てよう。片づけコンサルタントのこんまりさんも、テレビで「書類は全捨て」って言っていたではないか。
そう思って片づけ作業をしていたなか、ふと目に止まった詩があった。産業カウンセラーの勉強をしていた頃のレジュメにあった詩だ。
「許しうるものを許す
それだけならどこに神の力が要るか
人間に許しがたきを許す
そこから先は神のためだと知らぬか」
『八木重吉全詩集2 貧しき信徒・詩稿Ⅲ』
この詩…。「許す」は、ACIMのいう「赦す」ではなく、一般的に使われる「許す」の意味だと思う。だけど、ACIMの言わんとすることに近いニュアンスも感じる。
高校生の頃、八木重吉さんが書かれたある詩がすごく心に響いて、覚えていた。だけど、いつの間にか忘れてしまい、今は思い出せない。どんな詩だったんだろう。
ふと、八木重吉詩集というのを読んでみたい、と思った。
レッスン182-私は一瞬の間静まり、家に帰る
レッスン182は「あなたが住んでいるように見えるこの世界は、あなたの家ではない。心のどこかで、あなたはこのことが真実だと知っている」(L182-1-1,2)から始まる。
それをみんな心の奥では知っているけれど、思い出さないようにしている。仕事や遊びに没頭したり、感情を否認したり、その考えを否定したりして。
そして、永遠の安堵感を、この世でいろいろな手段に求めるが、結果的には徒労に終わる。
だれの心の中にも「父の家を探す幼子がいて、その子は自分がここでは異邦人だと知っている。」(L182-4-3)
その聖なる幼子こそが、私たちを導く内なる神の子だ。
「彼は家に帰ることを深く絶え間なく欲しており、彼の声は少し休ませてほしいとあなたに訴えている。」(L182-5-3)
「この幼子とは、防衛しないことによる強さそのものである。彼はあなたを信頼している。」(L182-7-1,2)
この世での時間のゆとりを設け、この内なる幼子の声を聴くことがこのレッスンのテーマである。
そして、この幼子の持つ防衛しないでいる無垢な強さこそが、自分の内にある強さであるという、その認識。
死の恐怖を忘れるため、ハードワークをする!?
少し前『東大から刑務所へ』という本を読んだ。堀江貴文と元王子製紙会長の井川意高(カジノで会社のおカネ106億8000万円を使い込み逮捕された)の対談集を読んだ。
(堀江:僕は小さいころから「死の恐怖」に苦しんできたんですよ。でも、シャバにいるときはとてつもなく忙しく動いているから「死の恐怖」は忘れている。長野刑務所の独房で寝ているのときには時間がありすぎて「人は必ず死ぬんだよな」という恐怖に襲われました。P208)とホリエモン。
たしか前の本でも、死の恐怖を紛らせるために忙しく働いていたといったようなことを言っていた。
案外、正直な人なのかもしれない。
私も幼い頃から、死が怖い。
今は前より怖くなくなったとは言え、迫っていると感じたら、どんなにか恐怖を感じるだろう。
もちろん、それは幻想だと、頭ではわかっている。
でも、まだまだエゴの見方から聖霊の見方に矯正できていない。
それよか、私は、ACIMをまったく知らない平均的な人より、防衛的だ、たぶん。
「姿勢を良くしろ」
最近ワークをしていて感じるのは、「感謝しなさい」ということと共に、「姿勢を良くしろ」ということ。
そのためには、体幹を鍛えること、手始めには前やっていたダンベルを再開…と、具体的なイメージも浮かんできた。
これは…、聖霊さんのメッセージ?
やっぱり私が勝手に思いついていること?
ACIMでは身体に重きを置くべきではないとしている。それなのに、姿勢をよくするために体幹を鍛えろとは…!私は、聖霊さんというより、エゴの声を聴いているんだろうか。
まぁ、腹筋背筋が衰えていて、椅子に座っていても前かがみになりがちではある。どっちにしても、体幹を鍛えて悪いことはなにもなさそうだ。