ACIMレッスン181-私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。

2018-03-29

あたらしい展開、あたらしい風…

桜が早くも散り始めていた。

3月も、もう終わり。

新年は1月だけど、4月こそ生きものの新しい一巡のはじまりのような気がしている。やる気に満ちた季節。だけど、だからこそ、諸々焦りも強くなっている。

ワークをしていてふと思ったのは、私は余計なものを抱え込んでしまって重くなってしまったということ。

“あたらしい展開”、“あたらしい風”を呼び入れるために、居住地を変える必要があったのかな…、と。

もちろん、今いるところで新しい展開は可能だけど、私の場合、しがみつきが知らず知らず頑固になってしまっているから、家を引っ越す、くらい根底から変えないと、身動きできなくなっていたのかも。

幸い、引っ越し先は、今の居室の半分くらい。

たくさんいろいろなものを捨てるきっかけとなった。粗大ゴミにも3回くらい申し込んだ。この15年に溜めてしまっていたものの多さと言ったら…!

マンション売却のほうは、内覧4件目の若いご夫婦の方が購入申込みしてくださった。とてもありがたい。

ただ、勤めて間もないこと他で都市銀行の審査が通らなかった。その後、信用金庫に事前審査を申込みしていて、そろそろその結果が出る。

通ればうれしいけど、そう簡単ではないのかもしれない。

 

次のレッスン、181~200がまたひとつのかたまりだ。

ここでは、自分の進歩を阻んでいるものに焦点を合わせて、その防衛を超えていくことに注力する。

レッスン181-私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。

進歩を阻んでいるものの一つは、「罪」や「欠けた部分」に焦点を合わせるクセだ。

「知覚には焦点がある。これが、あなたが見るものに一貫性を与える。」(L181-2-1)

「兄弟の罪に焦点を合わせるのはやめなさい。」(L181-2-5)

「彼らの間違いに焦点が置かれるならば、それはあなたの中の罪の証言となる。」(L181-2-7)

自分の罪を投影して他人に見える“罪”をゆるし、自分の無罪性見ることに心する。

そして、過去のことや未来のことを気にかけるのは、今の自分の見方を変えたくないがための、防衛手段のひとつだだから、このワークでは、自分が無垢であることだけに意識を集中させる。

誰かの「罪」が見えたり腹を立てるようなことがあったならば、それは焦点の合わせ方がまちがっているというサインなのだから、その時は、

私が見たいのは、これではない。

私は、自分とひとつである兄弟たちを信頼する。」(L181-6-4,5)

と自分に言い聞かせ、焦点を変える。

それができたら、罪と見えていたものはぼやけ罪のない世界に焦点が合う。その世界には、愛だけが映し出される。

怒りや恐怖心より、手放しにくい、罪悪感

思えば、今年に入って、マンションを売る件で何人もの不動産屋さんに会って、「不動産屋さんにだまされないで」と各々言われたのを口を聞いて、身構え、「兄弟たちを信頼する」どころか、「人をうがった目で見る」ということを、意識的にやっていた気がする。

家の外では、所轄内で振り込め詐欺が連続しているらしく、警察車両が「安心・安全パトロール」として「…こうした電話は信用してはいけません」と毎日連呼していく。

こうした風景を見ている私は、内側に「罪」をたくさん持っているんだな~と思う。

自覚できる罪もあれば、自覚すらできていないものもあるだろう。

怒りや恐怖は自覚したら、案外手放そうという方向に持っていきやすいが、罪悪感というのは、もっとその奥にあって、取り除くのが難しいような気がする。

意識の深い層に巣くって、自分を罰するために、自分を悩ますものとして現れる気がする。

もちろん、脚本・演出は自分だ。

「私たちの無罪性は、神の意志にほかならない。」(L181-9-7)のだから、自覚できたものは、都度、拭いさろう。

家の片づけ・大掃除とともに、内なる罪悪感も手放し、軽くする。過去への執着も、軽くする。