ACIMレッスン179-レッスン167、168の復習

2018-03-23

反社会的勢力ならぬ、反ゲンジツ的勢力!?

先週土曜日、手付金を支払い引っ越し先マンションの契約を済ました。

その際、「重要事項の説明」で、「反社会的勢力の排除に関する事項」というのがあって、売主さんサイドの不動産屋さんが「ここは、見るからに違います(反社会的勢力の構成員とは見えない)から、省きます」と言われた。

「反社会的勢力(暴力団等)」の人には売れない、ということなのかな?

そこで、不思議とぴりっと恐縮してしまった。

もちろん「反社会的勢力」の構成員ではない。

けど、「世界はない」と思っている、「反ゲンジツ勢力構成員」かも(‘_’)!?と。

「反社会的勢力」より「反ゲンジツ勢力」のほうがスケールがでかい気がするし。

世の中に対して悪さをしようという気はもちろんないけど、自分が世間というものに対してかなり「防衛的」だというのを再認識するきっかけではあった。

反社会的勢力の人になると、住まいを買うのも不自由なんだな。あたりまえか。

レッスン179-レッスン167、168の復習

レッスン179は、レッスン167とレッスン168の復習。

L167)一なる 生命いのち があり、それを私は神と共有している。

L168)あなたの恩寵が私に授けられています。私は今、それを自分のものとします。

これも、もうずいぶん前にやったワークで、タイムラグがあると感覚も変わってきてしまう。なるたけ直後にまとめた方がよさそうだ。

レッスン167で、最も印象にあるのは「死とは一つの想念にすぎず、肉体の死と見なされているものとは無関係である。考えは心の中にある。(L167-3-2,3)」というところ。

「死」とは「神との分離」を象徴する概念で、不安、恐怖、罪悪感、後悔などさまざまな感情で現れる。

そういうものが見えたなら、幻を見ているのだから、それをゆるし手放すだけだ。そうしたものは、自分の心の中にあるものが、この世というスクリーンに映し出されているだけだ。

私たちは時間という夢を見ていて、そこに肉体もあるかのように見ているが、それは夢の中でのこと。

想念はその源を離れないのだから、死はない。

そして、レッスン168では、すでに神の恩寵が授けられている、という。あとは、それを自分のものとするだけだ。

神の恩寵は、あなたがそれを認めるだけであなたのものになる。(L168-2-5)」

神はわが子を愛している。この世界が消えてなくなるための手段を与えてほしいと、今、神に頼みなさい。(L168-4-1,2)」

花粉症という過剰な戦い

このワークをしたある日のメモには、

「この世で、私たちは、必ず負けるゲームをしている。」

=盛者必衰ゲーム

でも、そのゲームを止めてもいい。

帰るところがあるのだから。

「死」を生かす必要はない。

今日のいのちをどれだけ喜べるか。

喜びって、刺激的というより、ゆったりした状態なんだ。

…などと書いている。

そして、私が花粉症がひどいことにもふれて、

戦う必要はないのに、つい戦ってしまう。

自分が罪の意識があって攻撃されているかのように感じるから、戦ってしまうんだ。

花粉は私を襲おうとしているわけじゃないのに、花粉を敵と見なして過剰防衛してひとり相撲をしている。

私は、何でもおばけにしてしまう、と書いている。

今日も、たくさん花粉飛んでそうだな。

ちなみに、ひどい花粉症だけど、お医者さんにもかかっておらず、薬も飲んでいない。

名づけて「野ざらし療法」

花粉に徐々にさらして、からだに花粉が怖いものではないと学習させる…、な~んて。

たんに、ずぼらなだけだった(^_^;)

 

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