レッスン170-神に残酷さはなく、私にもない。

2018-01-12

ワークとダイアリーブログの意味

新年のワークは元旦のレッスン169からスタートした。実家でのワークだったので、瞑想中母から声をかけられ、イラッとしてしまったことをダイアリーに書いた。

途切れつつも去年一年になんとか90個やったワーク。

ワークをしてダイアリーを書くことは、だれに向けたものでもなく中途半端なことをしていると自分でも思うけれど、私にとっては旅の小さな塚のようなもの、あるいはスタンプラリーのハンコみたいなものだし、ACIMと私を繋ぐものとして、役にたっているんじゃないかなと思う。

ワークの内容を復習することにもなるから。

レッスン170-神に残酷さはなく、私にもない。

レッスン170は実家で原文の読解をして、3日からワークしたもの。その後、東京に戻って気が抜けて呆けていたが、また9日から再開した。

「正当防衛で攻撃していると考えるとき、あなたは残酷になることが保護であり、残酷さのおかげで自分は安全だと思っているのである。それは、他者を傷つけることが自分に自由をもたらすと信じる、と言っているのである。(L170-1-3)」

「恐れから身を守ることと攻撃することが同じだという考え方は、徹頭徹尾、狂っている!そこでは恐れが生み出され、血をすすりながら大きく育ち、膨れ上がって猛威を振るうようになる。(L170-2-1)」

恐れと攻撃、残酷さについて書かれたレッスン170の冒頭を読んで、真っ先に、北朝鮮の最高指導者、金正恩氏が浮かんできた。

アメリカに攻撃されてしまう前に、何とか「正当防衛力」をつけようと去年ミサイル発射と核兵器の実験を繰り返している、その人。兄・金正男氏が暗殺されたのが遠いことのようだけど去年2月のこと。やはり関与があったのか。

その心は、恐怖と疑心暗鬼でいっぱいなのだろうと想像できる。

恐怖を前提とすると、周りがみんな敵に見える。そうして攻撃してくるように見えるから、防衛する。その防衛が過剰になると「やられる前にやってしまえ」が正しく見えてくる。

だれの心の中にも、「小さな金正恩」がいる。

空想上の正当防衛が展開されるための前提

レッスン170では私たちの「空想上の正当防衛が展開されるための前提」として、次のような考えが挙げられている。

1つは、「想念はその源を離れる」という誤った前提だ。

神は攻撃しない。正当防衛と名付けつつ攻撃を正当化したこの考えは、「想念はその源を離れない、ゆえに私たちは今も神とともにある」とするACIMとまったく異なっている。

2つめは、私たちは「愛ではなく、恐れに向かって慰めを求めているのだ」ということ。そして逆に愛が敵となる。そして愛が敵となる一方で、恐れから来る残酷さが自分の拠りどころ、神となる。

レッスン170では、私たちが崇めてしまっている残酷さを手放す訓練をする。近年は昔より「やられる方がバカなんだ、やられるよりやってしまえ、残酷が勝つ」といった風潮が強くなってきている気がしているが、それは私だけだろうか。

北朝鮮の最高指導者ほどではなくでも、私たちには恐怖と防衛心がある。だから、残酷さも防衛も捨てることは、荒野にひとり丸裸で取り残されるかのような、怖さがある。

レッスン170は、怖さの本質についても記述されている。

「恐ろしくて乗り越えることなどできないかに見えるその妨げとは、神ご自身に対する恐れである。」

私たちは残酷さを崇めており、神にその属性を被せて、恐れの象徴として神を見ている。これが私たちの無意識に在って私たちを支配する「ボスキャラ」なのだ。

心の奥底の神への恐れはすさまじく、レッスン170のような、自分の残酷さを捨てて代わりに愛を見るワークは、数回やったくらいでは全然効かないんじゃないかと思う。

イライラ…因果は逆

実家でワークをしている時は、ひとりになれる安全なワーク空間が守られないとイライラしていたけれど、ワークをしていて、イライラする状況は、私が「怒りたい」「溜まった攻撃エネルギーを発散させたい」がために、その状況を創り出しているのだと気づいた。因果は逆なのだ。

今はいらいらしたり、腹立たしく思った時は、これを思い出して、なるたけ早く手放すようにしようと思っている。