2017-10-24
レッスン158-今日、私は自分が受け取った通りに与えることを学ぶ。
レッスン158では「智識(knowledge)」「啓示(revelation)」「心眼(vision)」といった抽象概念を説明しているけれど、それらはもちろん形があるものではないし経験もしていないので、わかったようなわからないような…。むずかしく感じる。
その私がこれを説明しようとしても、ますます「?」だけど。
智識… 私たちが「神の心の中にある」という、そのことを知っていること。それゆえに本来、罪も恐れもない。
啓示… 神と一つだという、神との直接的体験。
心眼… 心の眼でみる真実の光景。
…かな?
智識は、すでに生きるものそれぞれに与えられている。
啓示は、直接個々に体験されるもので、分かち合うものではない。
心眼こそ分かち合うことができる。与えることで受け取れるし受け取ることで与えられる。…ということが書いてある(気がする)。
そして、真理においては受け取ることと与えることはひとつだから、心眼は与えることによってこそ自ら達成される。
そして、そのためワークで行うこととは、「誰のことも肉体とは見ない」ということだ。
誰のことも神の子として認めて挨拶し、聖性の中で彼は自分とひとつであると認めなさい。(L158-8-4)
自分の兄弟の中に見るものは自分自身にほかならないということを覚えてさえいれば、このレッスンを習得するのは難しくない。(L158-10-3)
日本のことわざでは「人の振り見てわが振り直せ」というけれど、ACIMでは、同胞のなかに罪を見て咎めれば、自分が咎められるし、逆に同胞のなかに光だけを見て赦せば、すなわち自分が赦される。
すごくむずかしいことが書かれているようけれど、要はその見方の練習をしようということだ。
今日、私たちはキリストの目で見ることを練習する。そして、私たちが与える神聖な贈り物により、キリストの心眼が私たちの上にも注がれる。(L158-1-3,4)
過去ノートを見てみた
20、21、23日らへんにこのワークをやった。
むずかしいと思う。第一巡目にこのワークをやった時にははたしてどんな感想をもったのかな、と昔のノートを見てみたら、2014年9月の23日にレッスン158をやっていた。
ノートには「とてもむずかしく感じる。今の私には心眼とか…わからないから、ワークをしていても、何か聖霊の声を聴くとか、そういう体験ないから、これでよいかわからない。」と書いてある。
…、今もかわらん…(・・;) 変化なし!?
でも、メモの最後に、「やはりACIMのブログを作ることが大事だと思った」とあり、今ふりかえって「これが聖霊さんのメッセージだったのかな、わからないなりに進んでいるのかな?」と思った。
ワークをして
今回ワークをやって感じたことは(このレッスンとは直接関係ないかもしれないけれど)、
「神は私たちがありのままでいることに感謝する、
この神からの感謝を受け取りなさい」
ということ。
神のように見たら、幻想の遮蔽物が溶けて、神を受け取れる。「神のように見る」とはすなわち、同胞を体ではなく、同じ聖なる神の子と見ること。
神からの感謝を受け取りなさい。
なぜなら、神は感謝そのものだから。
そんなことを感じた。
それと、もっとゆっくり&しばしば瞑想する習慣をもちなさい、と。それは自分の中にしっかりと聖性の基盤となるものを備えるため、だ。
私はすごい道楽者だと思う。自分でも理解しきれず、人にも説明できないものを、これが正しいやり方かどうかもわからず、えらい時間をかけて学んでいる(つもり)から。
でも他に何ができるだろう。無意味な自己満足かと思うけど、続けてみよう。進んでいけば、またちがう思いや考えが出るかもしれない…。
浮かんだことば
神に感謝するとは、眼の前のその人に感謝すること。