レッスン155-私は一歩退いて、神に導いてもらう。

2017-10-17

46年ぶりの寒さ

昨日は、東京の最高気温が15度に達しなかった。これは、平年より7度以上も低く、46年ぶりの寒さだったのだそう。どうりで寒かったわけだ。今日も昨日ほどではないけど、寒い。

着るものがない。去年、なに着てたんだっけ?

服は最近半分以上はリサイクルのお店で買う。最初はちょっと抵抗あったけれど、新品だと何千円もするものが数百円というのが魅力的。中には売れ残りだろうか、メーカーの札が付いた新品もあるし、素材がよいものも紛れているから、宝探し的な楽しみも。

で、さっそく覗いて、840円の毛糸のカーディガンだかコートだかみたいなのを買ってきた。すごくおしゃれだとは思わないけど、ウール100%でほっこりあったかい。

昔、服は概してもっと高かった。正規の価格で買った服は、なぜか服に対してキンチョーして気軽に着たりできなかった。そのうち型が古臭くなったり自分に合わなくなったり虫に食われてしまったり(管理が悪い)。安い服はそうした気張りがないからいいな。消耗品としてどんどん着て、その使命をまっとうさせるのだ。

レッスン155-私は一歩退いて、神に導いてもらう。

先週の12、13日レッスン155をやった。

レッスン155には、私たちのあり方がシンプルに書かれている。

「一歩退いて、神に導いてもらう」というあり方だ。実際には聖霊(ホーリースピリット)に導いてもらうということだろう。

これが、自分のためだけではなく、同胞にとっても役に立つ生き方だと書かれている。

聖霊に先導してもらいながら、自らは同胞のガイドとなり、神に向かって歩む。その意志を静かに見つめる。それがレッスン155だ。

印象に残ったのは、「世界は幻想である。」とはっきり明記されていること。

世界は幻想である。そこにくることを選ぶ者たちは、彼ら自身が幻想となり、自分の実相を回避できる場所を求めている。(L155-2-1,2)

しかし、幻想を真理の後ろに退け、あるがままの真理を前面に立たせることは、単に正気であるにすぎない。(L155-2-6)

この世の幻想性を受け入れないままで、真理(この世で成功や、豊かさ、幸福)を求めても結局はなにも手にすることができず損失感にさいなまれる。

ACIMに出会いACIMからその幻想性を学んだ者は、幻想をやりすごし真理に向かうことができる。その姿を同胞に見せることで、同胞を導き、天と地をつなぐ者となることができる。

このようにして、あなたは自分自身のためになることをしながら彼からの役に立つこともでき、神があなたに開いた道、そしてあなたを通して彼らにも開いた道を、彼らは歩み始めることになる。(L155-5-4)

彼らの苦しみは幻想にすぎない。それでも彼らは幻想を真理と誤解しているので、そこから連れ出してくれる導き手を必要としている。(L155–7-4,5)

これは、この世で、芸術やスポーツといった何かの講座をビギナーコースから受けて、それがわりと続いたので学校側から、「インストラクターコースの初級に進んでみてもいいんじゃない?」と言われているみたいだ。

これからは、この道を安全に、しかし慎重に歩きなさい。あなたはまだこの道では初心者だからである。(L155–9-1)

…と、クギも差されている。

あなたは行き先を知らない。けれどもそれを知っている存在があなたとともに行く。これより先は神に導いてもらいなさい。(L155–10-4,5,6)

私たちは神に向かって歩む。立ち止まって、これについてよく考えてみなさい。これ以上に神聖な道があるだろうか。あなたの努力と愛と熱意を傾けるに値するような道があるだろうか。(L155–12-1,2,3)

このメッセージは私の心に響く。この世であたりまえに生活していながら、神への道を歩む。これができたらいいと思う。

ワークをして

ワークをやった13日は、前夜に、お笑いタレントの清水アキラさんの三男が覚せい剤使用の疑いで逮捕され、父である清水さんが謝罪会見を行ったこともあってか、ワーク中もその会見を思い出していた。芸能界で成功を収めた父が、自分を裏切った息子のことで泣き崩れるのを見て、心が揺れた。

これも、私の「父なる神との分離」を投影したものだろうか。

息子に「バカヤロウ」と言いつつ、「突き離したいけど、家族ですから」と話す清水さんに、「家族ってなんだろう」「すごい結びつきだ」と改めて思った。

この世で、「家族」は信仰だ。その他の強い信仰である「おカネ」、そして最近では「健康」などとともに、この世のしくみを支えている。

でも、レッスン155では、この世は幻想だと改めてはっきり書かれている。

身体をもった一次的存在であり、実は神聖な神の子である私たちがこの世でどう生きるか。

この世で常識とされているものと、ACIMの教えと…どう塩梅をみながら、このかりそめのリアルな世界を、かりそめの個性をもった私という存在を生きていくか…

それはやっぱり目前に現れたことに、一歩退いて聖霊に導いてもらってひとつずつ対峙するっていうことか…。

アファメーション

私が、私が、とがんばらなくてもいい。姿勢を整えることこそ。

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