2017-10-05
秋が深まり涼しい。昨日は友人と近場の神社にお参りしてランチをした。
一人暮らし、在宅中心のフリーランスの仕事では、スーパーのレジで「ありがとうございます」という以外、一日誰とも話さないなんてこともざら。「たわいのないおしゃべり」が貴重なのだ。
固有名詞が出て来なかったり、レスポンスやリアクションもうまくできず、また少ししゃべるのがヘタになってる、と思った。
「旦那さんが勝手に金魚を買ってきて…それを本人が世話しないから水槽が汚れてしまって…金魚は死にそうになって…、けんかして…、でも結局私が世話するしかなくて…」といった話を聞いて「そりゃたいへんだね」と相づちする。
私も「ヤフオクにいつも履いている会社の新品のウォーキングシューズが出てて、入札して…何日もだれも入札なかったからもう落札したつもりになっていたら、ラスト3分で誰かに落札されてて、くやしかった~」とどうでもいいことを聞いてもらう。そうしているうちに力が抜けて癒されていくのを感じた。
用事があれば話は当然する。けど用事がないのにしゃべっているとしたら、その相手に好意や関心があってこそ。そういう友だちは数人しかいないな(作ってこなかった)とここまでの自分をふりかえる。
私が緊張しいな質でこもちがちな生活を心地よく思うのは深層に人への恐怖感があるだろうと思う。表面的には普通にやっているけれど、かくれ対人恐怖…みたいな。だとしたら、それは大いに赦すべきお題だな。
今からでも、遅くないかな。もっと自分から出ていって友だちを作ったりできるかな。
レッスン152-決断の力は私にある。
レッスン152は力強い言葉で始まる。
「自分の決断に因らない限り、誰も損失を被ることはありえない。苦痛を被ることを自ら選択しない限り、誰も苦痛に苦しむことはない。悲嘆にくれたり、恐れたり、自分が病気だと考えたりするといった成り行きを、自ら欲しない限り、誰にもそうした状況がもたらされることはない。…」(L152-1-1,2,3)
「ここに、細部にわたって完結したあなたの世界がある。」(L152-1-6)
私たちが見ている世界には、不本意なことや辛いこともあるけれど、それはすべて自分が投影して見せているのだと繰り返しACIMは言う。
「神はこの世界を作ってはいない」(L152-6-2)
「救済とは『真理は真実であり、それ以外に真実なるものはない』という認識である。」(L152-3-1)
災害、病気、貧乏、差別、暴力、テロ…こうしたことも、すべて神の子なる私たちが勝手にでっちあげてリアルに仕立て上げ見ているものだ。私たちが真実にめざめ幻想を幻想と見破れば、こうしたでっちあげられたものたちは、私たちに影響を及ぼすことはなくなるのだという。
今日のレッスンでは、これを自分の意志による選択とする。
「私たちは今日、真に謙虚になって、自分で作り出したものは自分で作り出したものとして受け入れよう。決断の力は私たちにある。宇宙の共同創造者としての自分の正当な立場をただ受け入れようと、決断しなさい。そうすれば、あなたが自分で作り出したと思っているものは、すべて消滅する。」(L152-8-1,2)
「決断の力は私たちにある。だから、私たちは、本来の私たちを神から受け入れ、謙虚に神の子を認識する。」(L152-10-1,2)
ACIMワークでは、手を変え品を変え、いろんな角度からアプローチを変えて、シンプルな真理を繰り返し練習している。
ワークをして
私が新たな企業からいただいた仕事と、その企業さんとの関わりに強い不安を持っている。それは、慣れない相手と初めての分野だからだけれど、その奥には「嫌われたくない」という気持ちがあるのだと思い当たった。
私は、この会社の社長に神を投影していて、彼ごしに見る神を恐れているんだ(おそらく)…。
すでに自分の身にある罪をどうしたら許してもらえるか、という自らを蔑んだ立場に置いている気がした。だから、正当なビジネスとしての契約がしづらい。
ビジネス自体、虚の世界のことだからと引いているのかと思っていたけれど、その奥には「権威への恐れ」「神への恐怖」があるんだ。
そして、それは誤っている。
「神への恐怖」や「罪の意識」はいろんな形で認識されるけれど、私はこのパターンなのだ。
それが表面に意識されるようになった今、それを赦すのが、私にとってのACIMワークだ。この企業さんの仕事は「過信頼(信頼しすぎるほど信頼する)」がキーワードかなと思ったりした。
アファメーション
ゲームの中でうまくいくことに頑張るより、ゲームの外に出なきゃ。