レッスン151-すべてのものごとは、神を代弁する声のこだまである。
2017-10-02
人様に見せられないブログ!?
10月。すっかり秋めいてきた。ようやくレッスン151~の新たなひと固まりへ。
きのうは、都主催のCSS講習を受講した。来週からはHTML講習が始まる。それぞれ三日間という短い講習だから初級レベルだけだけど、ドリームウィーバー、HTML、CSSとホームページづくりに必要なスキルを勉強している。機械全般が苦手な私にはかなかむずかしい。先生の操作についていけず、あわあわしている。
同じ受講者の方との雑談中「私がワードプレスでサイト(このブログ)を作っている」と話したら、「どうやったら見られる?教えて」と言われ、「『奇跡講座ダイアリー』で検索したらありますよ」と言いながらも、焦ってしまった。
関心をもってもらえるのは、とってもありがたい。検索してもらえることもうれしい。
けど、内容は「なんのこっちゃ」ってものだ。決して、人様にお見せできるものでは~(>_<)と思ってしまった。友だちに聞かれた時も言えなかったことがある。「いや~、マニアックなブログだから」って。
ブログはだれかに見てもらうことを想定して発信しているもので、それをはなから否定するかのような私って……。
『奇跡講座』を微々たる歩みながら学んできて、私のしごとは
1.『奇跡講座』をわかりやすくして伝えること、と
2.抽象的な『奇跡講座』の世界を日常生活とつなぐこと、
かなと思っている。残りの人生、これをやっていきたい。
ならば、もっと『奇跡講座』をわかりやすくして伝えることもしなくちゃな~と思った。『奇跡講座のおはなし』というページも手つかずのままだ。理解も不十分なのに、要約してわかりやすくできるかな、と思う。
けど、私なりのたたき台でいいんだ。少しずつやりたい。
レッスン151-すべてのものごとは、神を代弁する声のこだまである。
レッスン151は、9月22日~26日にかけてやっていた。なかなか完全にはできなくて何日もかけた。何日かけても完全にはできないけれど。
レッスン151をざっくり書くと…。
五感は自我(エゴ)の範疇のもので、あてにはならないものだ。
だから、五感に基づいて判断する私たちは、正しい「判断」というものはできない。
自我は私たちに、私たちが、
いかに無力で怯えているか、
いかに罪を恐れているか、
いかに罪悪感にさいなまれているか、
を証明しようとする。
自我は自我のうちにこそ、これらを見ている。
自我の声を聞いてはならない。
そうではなく、「神を代弁する声」(聖霊)にこそ、
自分は何者で、
自分は何を信じるべきか、
判断をゆだねるべきだ。
聖霊は、神なる性質だけを認め、自我が五感を通じて示してくるものを素通りする。
この世で自分の身に降りかかるように見えるすべてのことについても、聖霊が認めるようにしなさい。
すなわち、幻想は素通りし、神の真理だけを見る。
神に愛されているあなたには善きことだけが訪れる。
憎しみを越えたところに愛を、
変化の中に不変性を、
世界の中に天国の祝福のみを見るようになる。
これが、私たちの復活である。
だから、心に浮かぶ考えを聖霊にゆだね、その導きに従いなさい。
すべてのものごとは、聖霊のこだまである。
……というもの(まとめにしても長い)。
ワークをして
ワークをしていると、今月新しくいただいた仕事への不安や焦りが強いことを感じた。いつもはそれなりにつき合いがあるところからの仕事だけれど、新しい企業さんからのお声かけで、双方手探りだ。しかも私にとっては新しいテーマ。自信が、ない。
これらはすべてエゴ(自我)が見せてくる無意味な夢なのだ。それがどんなに今の自分にとって重要でリアルでも。
聖霊にゆだねて自分で判断しないようにしないと…。
思ったのは、わからなくなったら、とりあえず何か感謝すべき部分を見て(見つけて)、感謝だ。それが、エゴの判断から自分を遠ざけてくれる。
他の仕事が激減している状況で、新たに企業から直に仕事をいただけたのはありがたいこと。
この会社の社長さんは、10年近く前に私が同社を取材して書いた記事を元に、出版社に問い合わせ、私を探してくださった。それは、私にとって自信になった。ありがたい。
そして、新しいことを学べる機会。ありがたいことなんだ。
私は幼い頃から反抗的で感謝がなかった。今、やっと感謝を学んでいる気がする。
アファメーション
ありがとうと、心から思えたら、それが幸せだ。