レッスン147-レッスン133、134の復習

2017-09-11

レッスン147-レッスン133、134の復習

復習Ⅳを貫くテーマ

私の心の中にあるのは、私が神とともに考えている思いだけである。

レッスン147の2つの復習

L133)私は無価値なものに価値を置かない。

L134)私が赦しをありのままに知覚できますように。

 

ワークをするにあたって改めて、該当する復習の本文を読むとむずかしい。そして意味深い。。とくにレッスン133に反応した。

無価値なものに価値を置かない。

私たちは肉体とその寿命を持ってこの幻想の世に生きていて(と思っている)、その維持のために必要なことはやっぱり「価値がある」と思うから。たとえばACIMは「食べ物」まで無価値だから手放せと言っているわけではないだろう。食べ物が必要なら、それを得るためのおカネや仕事も必要…となる。

それらを幻想だと見抜き、ただ必要だけ満たし、そこに頓着しないこと。ACIMが言っているのはそういうことなんだろうと思うけど、ワークブックの言葉をどの程度「文字どおり」に受け止めたらいいのかわからない。

この世の永続しないものすべてを「無価値」だと思うと、経営支援がらみの仕事なんて、その幻想世界でいかに勝つかみたいなゲームに思えてきて、心はどんどん遠ざかるばかりだ。

いや、もしかしたら、私の解釈がまちがっているのかな。私の仕事に対する関わり方や思いが変わったら、それは価値あることに変えることができるのだろうか。

自我(エゴ)のゴールは「探せ、しかし見つけるな」だから、この世のどんな成功や栄誉を追求しようとしても、決して「満足」という知覚で終えられることはない。そういうものだ。

自我のゴールには、求めた結果が得られないだけれなく、傷みが伴う。それを追求者は自我の性質ではなく「自分がだめだから」と自分の罪と見なす。

そうではなく、自我のゴールを実在のものと勘ちがいして求めたところにまちがいがあるのだけど、まちがいとは捉えず罪と捉え、自己処罰の思いが残る。自我のワナだ。この世の人生という道のりは、頑張れば頑張るほど自我のワナに落ちるようにできている。

ワークをして

8日と10日にレッスン147をやった。ここ最近おカネの不安から求人サイトを見て、そこから「世間」を覗き見ていた。

ワークをして浮かび上がったのは、私が仕事に応募すること自体にすごく強い恐怖があるということ。それが何に対する恐怖なのかと感じてみたら、

・もうその仕事の募集が終わってしまっていること

・年齢が高いこと他で会う前に落とされてしまうこと

・履歴書を書くこと(過去の自分に直面)

・面接で人と会うこと

・落とさせること

・決まったとして、仕事や人になじめず嫌な思いをするリスク

・自分の貴重な時間を取られてしまう、その割に大したおカネにならないリスク

などなど諸々あった。が、その奥に根幹となる「自分のエゴが傷つくのが怖い」があるのがわかった。エゴはプライドと読みかえることもできる。

これこそ、私が動けていない元凶であり、私がいま赦すべきことなんだとわかった。

おカネの心配、仕事の応募に対する不安…。もう使えるおカネない、仕事探さなきゃ。これできる?これはどう?…でも応募するのも怖い。アクセルとブレーキを同時に押す→固まる。。。

そうして気ばかり急いて目の血管を切って、文字どおりの「血まなこ」になっていた。

赦すということは、存在しないことを認め手放すことなんだよね。渦中にいる時にはすっかり忘れてしまう。

赦しは、この世の幻想性の中で真理を象徴する唯一のものである。」(L134より)

赦しさえすれば、そして聖霊に委ねさえすれば、道は開かれる。そう思ったら、少し心安らかになった。

アファメーション

思い出したら、そこで赦そう