2017-04-27
おとといテレビでやってた北朝鮮の“Xデ-”は何事もなくすぎたらしくて、よかった。木々が芽吹き野良猫がくつろぐこの季節に、そういうきな臭い話は最も似つかわしくない。
そもそも“Xデ-”って表現が気になっている。
それでは、「あるかどうか」ではなくて、「いつあるか」みたいな言い回しじゃないか。
ニュースに煽られたりすることなく、心が鎮まっていることが大事なんだろうな。大きいことでも、小さなことでも、自分の世界に現れることに対して。
レッスン104-私は真に神に属するものだけを求める。
レッスン104は、引き続き「幸福=喜び・平安」のテーマを別の角度から説明している。
喜びと平安は私たちの権利である。
だけど、私たちは神からのギフトとしての喜び・平安ではなく、偽のギフトを後生大事にしているから、神からのギフトが受け取れないでいる。
神からのギフトを受け取るために、「私たちは心の中にある神の祭壇の前の神聖な場所をきれいに片づける。」というのがレッスン104だ。
一言でいうと、心の大掃除と浄化だ。
偽のギフトとは、この幻想のゲンジツの中で自分を幸せにしてくれそうに思えるもの-お金や地位、名声、容姿、若さ、学歴、などが浮かんだ。まだまだいろいろあるだろう。ブランド品・高級品やパワーストーンとかも?
ACIMはそれがいけないと言っているというより、それは幻想にすぎないから、それに惑わされて心忙しくして真の幸福をつかみ損ねるなと言っているのだ。
葛藤を静めて、
「私は真に私に属するものだけを求める。
神からの贈り物である喜びと平安が、私の望むすべてである。」
と心を整える。
ワークをして
いろいろ葛藤があるし、ガラクタと言われても執着したいものもある。一番は自分の身体というか、自分自身だ。
ACIMの理屈を学ぶことと、それを実践することはまったく別のものだなと思う。
私は圧倒的に実践が足りない。
ワークは理論を学び実践をする手助けにはなるけど、実践ではない。プールで泳ぎを覚えようとしながら、ずっとビート版にしがみついているだけみたいな状態かもしれない、と思った。
それでも、このワークをすると、心が静まり一時かもしれないけど、穏やかな気持ちになった。
心の奥底の純粋なところが感じられた気がする。そこで感じた道しるべこそが真の幸福につながっているのかもしれない。
日々の私は生活の不安定さと健康面からくる将来不安に心がかき乱されている。ACIMワークをやってそれを手放しては、また戻ってくるというくりかえし。この仮初めのゲンジツの世での“対策”が十分取られていないがために強い不安というか恐怖を感じているのだ。
だけど、このワークでは、
「舞台は整っている。好きなようにやってみなさい」といったメッセージのようなものを感じた。恐怖で自分を縛りつけていたら、何もできない。「恐怖を捨てて自由になれ」と言われているように感じた。
制限や問題はそもそも100%自分の観念が作って見せているものだ。心の奥底で感じた道しるべに、もう少し頼ってみたいと思う。