2017-04-07
ちょこっと間が空くと、自分のブログながらブログを開くのが怖くなる。ワークをする日とそれをブログに文章にする日に一週間の差ができてしまっていて、誰に見せているわけでもないのだけど「たまったレッスン、ブログに書かなきゃ」とちょっとしたプレッシャーを感じる。
そして、ワークの方は自分のための勉強で先を急がねばならないものではないのだけど、365という数が目の前にあると先を急ぎたくなる。
あー、そうだ、レッスン98からだ。レッスン98は英語が私には難しく大畑学さんの「A Course in Miracles Workbook精読」の解説を脇に置きながらでも、時間がかかった。
そして、なかなか理解できず先に進みづらいことに、(こんなことしていていいのか)といった焦りやいらだちも感じた(日本語だけで読んで進めてもいいのだけど、一回始めたやり方を変えたくないし、やはり原文で読みたいという気持ちがある)。
レッスン98:私は、神の救済計画における自分の役割を引き受ける。
レッスン98で気になったところは、
まず主題概念そのものの「神の救済計画における自分の役割を引き受ける」。
私の役割とはなんぞや。
「私たちには果たすべき大いなる目的があり、そのゴールの達成に必要なものはすべて与えられている。」
また「罪悪感のない者に恐れはない。…(中略)…為すべく定められていることを為すという静かな確信の中で、彼らは休らう。」
大畑学さんの解説には「あなたが自分の無辜性に気付き、スピリットとして生き始めると、確実に救いの道を進むことになる。あなたがいつどこで、その役割をどう果たして行けばいいのか。それは、神の計画の中で既に決められている。完璧なタイミングと場面が与えられ、あなたは自分の役割を果たすことになる。そこに疑いはない。」とある。
なすべきこと。定められていること。
自分に必要な赦しと救済の機会。
私は、未だに救済とは何なのかがわかっていないのかもしれない。
おもしろいなと思ったのは、ワークブック中のイエスの“営業トーク”。
自分の機能(はたらき)を認識することに毎時間5分かけることの“お得感”が強調されている。
「計り知れない大きな報償が得られることを思えば、5分というのは小さな要請ではないだろうか。」とか、「ここで提供されているのは、あらゆる苦痛からの完全な開放とこの世の世界にはない喜びを、あなたに保証するものである。」とか。
さらに「時間には意味がないのだから、あなたはすべてを手に入れる代償として、何も要求されていないということになる。これはあなたが決して損をしない取引である。そしてあなたが得るものは、まさしく無限である!」と。
「えらい得するんだよ」というお勧めの仕方に、くすっと一人で笑ってしまった。
それで、1時間に5分というワークを、ともかくやった。
ワークをして
3月から4月への切り替え時で、いつも心にある将来への不安をまた感じ出していた。ワーク時も不安が出てきて、レッスン98の内容というより、それを手放すということをした。
何度目かの5分ワークの時に、神における救済計画における自分の役割を果たす…とは、やはり聖霊に身をゆだねることだと感じた。
私は、未だに聖霊の声やメッセージというものがよくわからない。エゴの支配下にあって聖霊からのメッセージに耳をふさいでいるような気もするし、無意識ながらメッセージを受け取れているのかもしれないと思う時もある。
ACIMと出会うきっかけとなった『神の使者』に出会えたことだって、その後すぐにブックオフで続編の『不死というあなたの現実』を見つけたことだって、聖霊の導きがあってこそだと感じている。
一方で私のエゴは、「ここまで」と聖霊が動いていい領域を決め、そこからはみ出さないように、と聖霊の動きを監視しようとしているようにも思う(あくまで私の心の中のことで、妄想にすぎないのかもしれないけど)。
エゴは聖霊を脅威に感じているのだ。
エゴの縛りが強い今の私は聖霊さんが何を私に指示してくるのか、何かを犠牲にするよう迫るのではないかと、耳をふさいでいるようなところもある(気がする)。
その日の最後の、夜11時からのワークの時のメモには、
「聖霊さま、いつもありがとうございます。
私は神の救済計画における私の役割を喜んでお受けします。」とある。
一日を通したワークで、そういう心境になったということだろう。
エゴはすべてを見通せないし、幻想しか作り出せない。
聖霊はすべてを見通し、実在する喜び・平安に導いてくれる。
だから、もっと聖霊の声を意識的に聴く、その決意をしよう。したい。