レッスン96-救済は私の一なる自己から訪れる。

2017-04-03

私のウォーキングコースでは川沿いに桜並木があるけれど、今朝けっこうほころんでいた。木にもよるけど1~8分咲き。

今年もこの季節がやってきた。

桜はとても繊細で美しく、その開花時期が短い。完璧といえる満開は3日から一週間位。その後は新葉が出るのだから成長に向かっているのだろうけど、散り際の寂しさはなんともいえない。

日本人は桜が大好きけど、それは桜がこの世の無常を象徴しているからではないのかしらん。この世を無常と心得たうえで、その最高の姿を愛で祝福する。日本人にはそういうメンタリズムがあるように感じる。どうだろう。

他の国の方々も、桜のつぼみからその潔い散り姿に特別な思いを感じたりするのだろうか。

レッスン96:救済は私の一なる自己から訪れる。

レッスンの説明文がむずかしく感じる。抽象的で日本語でもなかなかすっきりとはわからない。

くりかえし、少し単純化してみよう。

自己… 善… 愛…   霊…(真理)

エゴ… 悪… 憎・怖… 体…(幻想)

私たちは自己とエゴ(偽自己)に分かれているように感じていてその両者の間に葛藤を感じている。

この両者間のバランスを取ろうとするのは無意味である。エゴは幻想の中にしか存在しないのだから。

そうではなくエゴの幻想性を見抜いて、実在するものに拠りどころを持たなければ、永続的に救われることはない。エゴの論理では何事もなしえない。それは砂上の楼閣である。

実在するものを拠りどころとすることこそ救済である。

そして神と一なる自己こそが実在するもの。

ただ、私たちは今エゴを拠りどころとしているから、それがわからない。心は二分され、葛藤があるばかりだ。

そこで頼みにするのが、神と私たちをつなぐ聖霊だ。聖霊は私たちの心に住んでいる。聖霊は救済のアイディアを持っている。

レッスン96では、自分の中の聖霊とつながりそのアイディア(想念)を分かち合うこと。それを自分のものと宣言することがテーマとなっている(ように思う)。

ワークをして

たしかにこの幻想の世で葛藤する自分に折り合いをつけて「うまく」生きようとしても、たとえ一時はうまくいったかのように思えても、必ずほころびが出る。

「何か」で状況は変わるはず。

そうやって「新しい何か」を探し、今まで何度となくトライしてきた。

でも、欠落感がない安らいだ気持ちは得られないばかりか、いずれは滅ぶ肉体という夢がクリアに見えてきて、怖ろしさは増すばかりだ。

50も半ばを過ぎるとこの世のカラクリが垣間見え、

何か他のもの、新しい何か…にも期待できなくなってくる。

この世の常識からみれば、ばかげているようにも思うし、私がACIMの考えを支持していることが周りの人にわかれば「頭がおかしいのではないか」と思われそうで怖くもあるけど、

やはり一なる自己を「本気で」拠りどころにすべきではないか。

ワークをしてそう感じた。

2層の自分

ワークでは私たちの心が2つに分裂していると書かれているけれど、

今は自分が別の意味でも2つ…2層になっている気がする。

① ACIMの世界観を学び、そこになじもうとする私、と

② 世間でなるたけ普通に生きようとする私、だ。

たとえば、テロや傷害事件のような残忍なことがあれば犯人を憎む会話をするし、身内が亡くなられたと聞けば、普通にさぞかし辛く寂しいことだろうと思う。それが私も知っている人であれば、やはりショックを受けるし悲しい。

一方で、これは幻想なのだ、赦せと言い聞かせる私がいる。

そういう意味で2つ、2層の自分を生きている気がしている。

そしてここで生きる上ではこの2層は必要であり、これはこれでいい、とも思っている。

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