レッスン82-レッスン63、64の復習

2017-02-25

先週の土曜日、レッスン82をやった。

今日はあれから一週間か…。外は日差しが出て青空にぽっかり雲が浮いている。寒さが少し緩んでいる。あ、そうだ、昨日からプレミアムフライデーというのがスタートしたらしい。私には無縁の制度でぴんと来ないけど。

この一週間は、経営計画やマニュアルづくりをお手伝いしている企業さんの研修に参加したり、商業活性化プロジェクトに携わっている商店街のバス視察旅行に参加したり、友人宅に行ったりと、私にしては外交的な一週間だった。土曜日、窓から外を見て、ふと我に返る。

レッスン82のダイアリーから…だ。

レッスン63:世の光は私の赦しを通して、すべての心に平安をもたらす。

レッスン61~63には、「私たちは世の光であり、赦しが世の光としての機能であり、世の光である私は赦しを通してすべての心に平安をもたらす」のだと説かれている。

赦しは、私を通して世の光が表現されるための手段であり、結果として癒されるもの。どうも赦しというのは手段のようだ。

何の?

私たちがしている勘ちがい「神からの分離」を取りなすための。

究極的には、この宇宙という幻想から覚める

宇宙を終わらせるための。

宇宙が消えるのなら当然自分も消える。いや消えるのは自我の方だ、そもそもなかったのだから。

それに本能的に強い恐れを感じる。それは私だけではないだろう。

ACIMがさほどは広がらないわけだ。

エゴをどんどん追及してエゴゲームに勝つことがこの社会での“成功”だと認められているように感じる。

資本主義が進むにつれ勝負はつきやすく、その度合いもグローバルに広がりやすく格差が大きくなるようなしくみにいる。

このゲームでの勝ちに執着できない人や勝てなかった…と思う人にとっては、ACIMは少しは受け入れやすく理解しやすいものだろうか。

誰かが他にいるわけじゃない、勝つ相手も負ける相手もいない。

私が私を赦すのだ。この現世を使って。

私の今関わっている仕事は、基本的に企業やお店の経営のお手伝いだから、いかにお客を集め売上や利益を上げるのかが重要になる。そのためにはどうしたらいいのか、この世に立った視点と、この世はすべて幻想なのだからと取りなす自分の視点がある。

いつものことだけど、ゲームの主人公とゲームプレイヤー、二人の自分がいる。

きっとACIMを学んでいる他の方々も、この世での自分の役目を行いつつ自分のACIM道を進めているんだろうな。

今週はけっこうこのゲンジツの世にどっぷりだったから見え方はゲームの主人公よりだった。それもまた楽し。

レッスン64:私が自分の機能(はたらき)を忘れずにいられますように。

ACIMワークを一巡させていたこの2、3年を振り返ってみると、赦しを実行するというよりは、ともかくワークを進めることと、この世を幻想とみなし執着しないことに重きを置いてきた気がする。

その結果、何を見てもしても「どうせ幻想なんだから」と斜に構えたような現実逃避的な感覚が強くなり、仕事も建前的な感じが強くなった気がしていた。こだわらないのはいいのか、良くないのか。少しずつ周りのみんなと話が合わなくなり、それを口にしないので、口数が減った。

人から見たら、まっとうな変人だ。若い時からそうだけど、ますます…(^_^;) 50代にもなると、人から変人をツッコまれることもなくなり楽ではあるけど。

それが最近は前より、現実に興味が湧いてきた。赦すことさえ覚えていれば、この世をどんどん楽しんでいいんじゃないかと。たぶん、私は赦しがうまくできないのを自覚して、その機会からも逃げていたような気がする。とにかくワークをまず一回終わらせたいと先を急ぐ気持ちもあった。本末転倒なんだけど。

外は春の兆し。この世のゲンジツのあれやこれやも楽しんでもっと人生謳歌したいな、と思うようになってきた。

これはACIMからの距離で測ったら、離れたのかな、そうではないのかな?

このレッスン64のワーク「私が自分の機能を忘れずにいられますように」だけで、一項目になっているところはおもしろい。それだけ忘れやすいということなんだろうと思う。

歩いていて、後ろから猛スピードで自転車が自分の脇をすり抜けていく。怖い…。乱暴な運転だな。たかだか、そんなことですら、私は私の機能を忘れてしまう。

赦すべき機会が訪れたら、そして自分の機能を覚えていたら&思い出したら、赦す。それだけなんだよな。実にシンプルだ。

赦しには大きいも小さいもないって言うけど、今、自分に来る全部を赦せる自信はない。でも、私がなるたけ忘れずにいられますように。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

← 戻る