2016-12-05
レッスン76-私は、ただ神の法則のもとにある。
レッスン76は11月の終わり、母が東京に来る前にやっていた。
読み返すと、このワークもまた難しかったことを思い出した。
というのは、主題概念は「私は、ただ神の法則のもとにある。」だけど、私たちは産まれてからずっと、「神以外の法則」を学んできたように思うから。
ACIMワークブックの中でもレッスン76の説明は圧巻だと思う。
「あなたは、山積みにした紙切れの束と大量の円形の金属がない限り餓死してしまうと、本気で思っている。小さな粒状の固体や、鋭い針で血管に注ぎ込まれる液体が、病気や死を寄せつけずにいられると、本気で思っている。別の肉体があなたの傍にいない限り、自分は孤独だと、本気で思っている。
このようなことを考えるのは狂気である。」
いやいや、ほとんどの人はこう考えている。お金のテーマ、健康のテーマ、愛のテーマは私たちの3大関心事と言えるかもしれない。それが狂気であって、私たちの人生に影響力を持たない、とは、ACIMのワークであってもなかなかすんなりとは納得しづらい。
レッスン76のワークでは、「これまで私たちが従わなければならないと信じてきたさまざまな種類の『法則』をさっと振り返る」ことから始まる。
「それはたとえば、栄養や免疫や医学の『法則』、そして肉体を保護するための数限りない方法についての『法則』が含まれるだろう。さらに考えてみなさい。あなたは友情の『法則』や、「よい」人間関係と互恵の『法則』も信じている。…」
たしかに…
50も半ばとなると今や友だちとの話は健康話やエイジングケアが中心だ。どんなサプリ飲んでいるのか、とか、このメーカーのオイルがいい、とか。あるいは週に何回ジムに行ってどんな運動をしているかなどなど。
もちろん、これらに効果があると思って、それを期待してやっている。
青魚を食べる、動物性の油脂を控える、甘いものを食べ過ぎない、1日8,000歩は歩くべき。温活して体を冷やさない…
健康のことだけでもたくさんあって、、、
でも、、これらはまったく無意味なんだろうか。それとも私のACIMの理解の仕方がまちがっている?
肉体の苦しみは心がかぶる仮面?
私は、ただ神の法則のもとにある。
こう唱えると、やはり心がざわざわしてしまう。
このワークの説明では、こうも言っている。
「肉体が苦しむ理由はただ1つ、心が心自体の犠牲になっていることを心に気づかせないためである。肉体の苦しみは、真に苦しんでいるものは何なのかを隠すために心がかぶる仮面である。心は自分が自分の的であることや、自分で自分を攻撃していて、自分が死にたいと思っていることを理解したくない。この事実から逃れるためのものである肉体を救おうとしているのが、あなたの「法則」である。…」
この説明も、すごい。とくに一行目。「肉体が苦しむ理由はただ1つ、心が心自体の犠牲になっていることを心に気づかせないためである。」
こんなことはなかなか言えない。でも、もしそうであれば、私たちはまったく苦しむ必要はない。ACIMの教えどおりに、見方を変え、罪悪感を手放し赦しさえすれば、おのずと欠くことない世界、神の世界に住むことができる。
もちろん、その見方を変えるというのが、そうはたやすくないのだけど…
ワークから感じたこと
私がこのワークをやって感じたこと(聖霊さんからのアドバイス?)は、このワークのテーマに直接関係なさそうだけど、2つあった。
1つは「感情を向けるベクトル(矢印)の方向がまちがっている」ということだった。その矢印には2つあって、
1つは、もつ感情の中身の方向性…ネガティブな方向ではなく、赦し感謝しを、ということかな。
もう1つは、感情を向ける先(対象)。
つい仕事などで、たまにだけど、クライアントさんの欲求に対応するかたちで末端の私に理不尽なことが求められている、と感じることがあり、直接かかわる人に一瞬ネガティブな感情を抱いてしまうことがある。けど、それはまちがっている。ただただ、この状況をくれた聖霊に感謝あるのみ、と。
そのようなことを言われた気がした。そう、いろんな状況によく「困った」と思うけど、それは赦すべきことか、感謝すべきことしかない。巻き込まれてネガティブになるのは的外れだ。
それともう一つ。私は「自分で判断してはならない」という「服従」を刷り込まれている、と言われた気がした。
私に今与えられている選択はせいぜい「反応」なのだと。
その「法」=呪縛も解くべき。こう告げられた気がした。
これらが聖霊からのメッセージなのか、たんに私の直感的なものなのか、その辺りもまだ(勉強して何年も経つけど)、私にはよくわからない。
けど、こうした感じたことは実際役に立つことが多いからメモを残している。
今月、どれだけ進められるかわからないけど、また、次のレッスン77からリスタートしたい。