こころに ふと秋風

2016-10-30

独り身に秋風が…

先週と先々週は、土日、店の観察調査をしていた。

有楽町や銀座のある業態のお店を何店回って外から経営や運営のしかたなどを見て調べる仕事だ。その仕事自体はきらいなことではない。

銀座はショーウィンドウのディスプレイも綺麗で、冬に向かう季節のワクワク感を感じた。独りで町に埋没しながらも店をチェックしつつiPhonで写真も撮る。

町は、カップルやご夫婦、母娘、グループでにぎわっていた。みんな楽しそうだ。

そんななか、ふっと寂しさを感じた。

わたし、何やってるんだろう。。。わたしだけひとりっぽっちだ。。

私には休みにウィンドウショッピングするような家族はいない。いつもほぼ独りだ。

これから冬にかけて、クリスマスやお正月、バレンタイン…と独り身のさみしさが沁みる季節だな。。。

人生がもし勝ち負けのゲームだとしたら、結婚もせず家族なく子どももいない、定職もない私は「大負け」だな。。。と。

いつもは自分のことを自由で楽だと思っているくせに、家族連れやカップルで笑顔でおしゃべりしながら歩いている人たちが急に羨ましくみえたのだ。

これは「不満」なのかな?

それとも、ようやく少し「まとも」な感覚になったのかな?

(不満だとしたら、今やっているレッスン72「不満を抱くことは、神の救済計画に対する攻撃である」そのままの攻撃だ。人生の勝ちや負け、「独り身が沁みる」といっている時点で、まったくACIM的ではないが、)

「ない」と「ある」

いつも思うのは、

人生、「ある」に目を向けて生きないときびしいな。。ということだ。

私をはじめ、人間というのはつい「ある」のはあたりまえで気にならず、「ない」に目が向いてしまう。

おカネがない、とか、

彼氏・彼女がいない、パートナーがいない、とか、

自分を活かせる仕事じゃない、とか。

あるいは、時間がない。

若くない。

健康じゃない。とか。。

自分以外の人についても、

理解がない、

やさしくしてくれない、

役に立たないとか。

みんな状況はちがう。それなりの事情がある。

そこで、私みたく、

普段は独りで楽していることは置いといて、「家族がなくて寂しい」にフォーカスしてしまうと、生きづらくなる。

幸せに生きるには、常に「ない」より「ある」を見ることだ。

たとえば「年齢」でも「若くない」じゃなくて「経験がある」と見る。

過去や未来について、

昔、こんな悲しいひどいことがあった、

明日が不安、どうしよう、…でなくて、

今のなかの「ある」を見る。

なかなかそうはいかないけど、なるたけ常に「ある」を見る。

私だったら、母がいる、とか、ありがたいことに、今できる仕事がある、とか。

「ある」と「ない」も二元性だし、ACIM的見方とは異なるのだと思うけど、、、

心に秋風を感じて、ふとそう思いを巡らした。

これからのイベント続きの冬に向けて、自分に言い聞かせているのかもしれない。

「ない」ではなく「ある」。

 

これからACIMの勉強がもっともっと進んだら、「ない」も「ある」もないすべてを包んだ感覚になれるのかもしれないけど、今は

「ある」を見る。

「ある」がある。