2016-10-13
不満の雲のむこうへといくワーク
私たちは神の愛と光から生じた神聖な存在だが、私たちが抱く「不満」の雲がその光を見えなくしているという。
不満の向こうには、私たちの神性が今も在る。
「今日は、あなたの中の光に達することを、もう一度真剣に試みてみよう」
と、レッスン69では、前々回の67と同様、雑念を通り抜けて内なる神性に到達する瞑想ワークを試みる。
レッスン69のワークは10月8日と10月12日(きのう)やった。8日は少し時間をかけて瞑想していたものの、当日の晩友人が泊りにくるということで、どこか気もそぞろで、ゲンジツの時間に圧迫される感じがあり、深くまで入り込めなかった。
昨日は、しっかりやろう、と再度試みた。
自分の内なる光へ旅する
目をつむり、ワークブックの指示どおり「ふだん意識がとらわれているすべての事柄を手放そうとして」心を静め、雲を払いのけていく、そしてまとわりつく雲の中を払いながら進んでいく…
そのうち無意識のフタが少し緩んだのか、いろんなビジョンのようなもの―おそらく意識下にある雑念がかたちになったもの―が次から次へと湧いてきた。
今振り返ると、2、3しか覚えていないのだけど。
なぜか小学生の頃に父、母と行った1970年の大阪万博のイメージが出てきた。当時のことはほとんど記憶がないが、アルバムの写真のイメージが浮かんだ。不思議と母の存在感はなく、若かりしお父さんが肌もつやつやして快活にいた。
また、先月見た映画『君の名は。』で見た彗星から分かれた隕石が地球にぶつかる?ようなイメージが出てきた…
他にもいろんなイメージ(忘れた)
それから、さらにいろんな場面を過ぎた後、トンネルのようなものに入ったのか、ものすごい高速で私の心がベージュっぽい世界の中を進んでいく。進む。進む。
もしかしたら、今日は光に行ける??と、思った(雑念だ、たぶん)。
そうしたら失速して、ぽとんとトンネルから出た。
けど、まばゆい光は見えなくて、そこは大きな黒にところどころ金の縁どりがある仏像の側面のお尻のあたりだった。
そして、これはACIMのいう「光」ではないんだろうな~(またダメだったんだ)。と思っておしまい。
絵に描いて「ユング講座」で見てもらう
昨日はたまたま月一回の「ユング心理学」の講座の日だった。
ユングの講座では、最近見た夢やヴィジョンのはなしをする時間がある。
夕方無性にワークで見た仏像を描いてみたくなり、インターネットからイメージが近い仏像を選んで、それをお手本に描いてみた。
そして、それを講座で先生と仲間に見せた。
夢の絵じゃなくて「瞑想のワークの時の絵」というのに多少気恥かしさがあった。
先生はユング心理学の先生であってACIMの教師というわけではないが「これがあなたの光のイメージなのよ」と言ってくださった。
見てもらったことで、宙ぶらりんだった心がすとんと着地できた気がする。
見ていただいて、ありがとうございます。
そっか。まばゆい光ではなかったけど、これが私の「光」のイメージなのか。。と、少しうれしい。私がいる。