2016-10-06
私たちは何者か、本性を再確認
レッスン67では、私たちの本性についての確認して、瞑想ワークでその心の真理に到達するよう試みる。
まず、私たちの本性について。
これは私たちが神をどう捉えているかによって、その見え方も変わってくる。
神を愛であるとそのままに捉えるか、愛であると同時に罰するものや懲らしめるものとして捉えるか…。
今日は神が定義するとおりの神に、私たちのイメージを書き変え、その神の延長の神の子として、自分自身を捉えなおす。
愛が私を、愛と同じに創造した(Love created me like itself. )。
すなわち、愛なる神がその延長として私たちを愛なる神と同じに創造した。
レッスン67の主題概念はワークブックの中でも私が好きなフレーズだ。とくに五語からなる英語のリズムが覚えやすくてしっくりくる。
今ここで、こういうフレーズを抵抗なく感じることができることを、ありがたく、感慨深く感じる。
というのも、若かりし世を拗ねていた自分ならば、このフレーズにも反反発を感じ、とうてい受け入れられなかっただろうから。
齢五十にして(正しくは55歳)、こういう気持ちになれたか…としみじみするのだ。
この世の人にはさまざまな運命や宿命といったようなものがあるが、人を恨んでいたり、憎んだりしていでは、ぜったいに幸せにはなれない。それがどんなに「正当」に思えても。
そう、やっと半世紀生きてきて、思える。
ましてや、ACIMを学び、それがエゴが見せている幻なのだと知った今、「正当」でないのはなおさらのことだ。
恨み、憎しみ、怒り、悲しみ、絶望感、罪悪感…すべて、リアルなものではない。神の実相世界にはないものだ。
それが見えているということは、神と自分自身をエゴが定義づけするままに、まちがえて捉えているということ。修正が必要なのである。
そして、今、私はその修正トレーニングをしている。
神と自分を信じてよいと知って、人生が途方もなく広がったような感じがする。それが幸せだ。
瞑想ワークで「自らの内なる真理」への到達を試みる
このワークでは、実際に雑念を越えて、さらに「無念無想の時間を通り抜け、まばゆい光を自覚し、その光の中で愛に創造されたままの自分を認識する」とある。
だけど、ワークブックを初めて三年以上経つというのに、昨日ワークをやった時、その「まばゆい光」を見ることはできなかった。
どうも私は、瞑想ワーク、とくにその中でビジュアル化するということが苦手のようだ。
夢というのも、「見る」というのがよくわからない。夢は「感じる」けど、それを見ているというのかな?他の人にはどう見えているのかな。
この後にあるACIMのワークのヴィジュアライゼーションでも、あまりうまく「見る」ことができなかったけど、それはおいおいに…。
今はまぁ、いいことにしよう。
問題なのは、肝心な時に
愛が私を、愛と同じに創造した(Love created me like itself. )。
を思い出せないこと。
日常生活のささいなことでも、「も~。いやになる」とため息つくこと多し。
その時にすかさず、このフレーズが頭をよぎるようになればなぁ。。。