2016-01-30
ここ数日、仕事の締め切りで慌ただしく気持ちが煽られてしまって『奇跡講座』ダイアリーのほうに向かえなかった。フリーランスで働く私は、仕事が忙しい時とそうでない時の差が大きい。これまでも仕事が詰まるとワークが中断してしまうことが、何度もあった(いくらこの世が幻で私は体ではなく霊だとしても、幻のなかに生きているこの肉体としての私には、たまにやるべきこともたまにある)。
そうして、しばらく離れていると、そもそも何をやっていたんだっけ?と『奇跡講座』の世界観がわからなくなってしまう。また『神の使者』と『不死というあなたの現実』を読み返しこれまでのワークの復習をして、ワークに戻っていくというのが、常だった。
『奇跡講座』に惹かれて、ブログを作ることに決めたけど、なかなかスタートできなかったのは、ITが苦手でブログをどう作っていいかわからない、という理由もあったが、それ以上にもう一つの理由、「こと『奇跡講座』に関しては妙に肩に力が入ってしまう」というほうが大きかったように思う。
だいたい、『奇跡講座』の世界観の概要をブログ内のどこかで説明しておかなければ、日記を書いたところで、「なんのこっちゃ、これ?」ってなるだろう。
だけど、『奇跡講座』の世界観を、どうわかりやすく説明したらいいだろう。初学者の私にできるか。
『奇跡講座』ダイアリーを書く前に、『奇跡講座』の世界観の説明が必要 ⇒『奇跡講座』の世界観を正確にわかりやすく書く自信がない ⇒そもそも誰も見ないだろうから、『奇跡講座』の世界観の説明なんてなくったって構わない ⇒いや、それではまずい ⇒そんなこと言ってたらいつまでたってもスタートできない、とにかくダイアリーを書いてみよう…とぐるぐるしてしまった。
別のLINE PLAYというゲームの中では何の気負いもなく、どうでもいいようなダイアリーが書けているというのに。
『奇跡講座』のこととなると、私はどうしてこうもキンチョ―してしまうのか。歩く際に、右手と右足を同時に出してしまうようなカチコチの状態になってしまっている。
しばらくして、その裏には、「恐れ」があるのだと気づいた。
これまでの人生、私は本音を言ったことがない。いわゆる「事なかれ、省エネモード」で生きてきた。
『奇跡講座』は私にとっておそらく大事なもので、だからこそ、誰に頼まれもしなくてもワークをこつこつやってきた。そして、ヘタレなりに自ら発信してみようと思い立った。
だけど、私が素晴らしいと感じている考えは、世間的には圧倒的に受け入れがたいものだろう。
『奇跡講座』のワークをやってその世界にいる時には、「これは素晴らしい」と思う。一方、そこから出て社会と言われるところに立って、『奇跡講座』を見た時、それをどう伝えてよいか、怯えで身構えてしまう。怯えというはっきりとした名前をつけられるところまでいかず、ただ固まっている。
それは怯えだとすると、自分が思うことを素直に表現することへの怯えなのか、人から受け入れられないことに対する怯えなのか。その両方なのか。
私の場合は、この怯え、固まる、恐怖感こそ、幻であり、ゆるす(手放す)べき、最初のものなんだろうな~と気づいた。