221~230(1.赦しとは何か)

ACIMレッスン221-私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。

2018-11-15

独り身には堪える冬!?近づく

急に寒くなってきた。街にはマフラーや手袋をした人の姿も見かけるようになった。

冬が来る!

北海道では昨日初雪が降ったとか。これは平年より22日も遅いらしい。北海道の冬は長い。

冬は、ひとり暮らしにとっては、きびしい季節だ。ひとりが気楽だといっても、クリスマスやお正月があるし、家族であったまろうという企画ががんがん流されると、やっぱり独り身の冷えを感じる(勝手だ)。

同じひとり暮らしで無職や在宅ワークの方のブログを覗いたりしているが、その中に猫を飼っている方がいらして、うらやまし~、と思う。

あぁ、ソファに寝そべっているとき、にゃんこさんが私の胸やのど元のあたりまで登ってきて、どっかと座る感覚、また味わいたい。

当マンション、築25年経っているけれど、管理規約でペット禁止。ざんねん。

この前、エントランスで犬を抱えている方とすれ違ったけれど、あれは、いったいー??

飼っていいんなら、私もにゃんこさんにいてもらいたいなぁ。

今はぬいぐるみのにゃんこさんが、二人。

かわいくないところが、気に入っている。

ACIMワーク221-私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。

第2部では、「言葉はあまり意味をもたなく」なり、「演習を単なる出発点とする」とされている。演習を導入のきっかけとして用いて、「真理の直接的体験」を追求する。

説明文は難しいけれど、「概念はある程度学んだから、神そのものを感じることにワーク時間を使いましょう」ということだと思う。

レッスン221の主題概念の「私の心に平安が訪れますように。雑念がすべて静まりますように。」というのは、まさに私に必要な祈りのことばだ。

ワーク中や意識がある時は、感謝して聖霊のアドバイスに従おうと思っているけれど、気づくと、不安と恐怖と罪悪感でぐるぐるしてしまっている。

ACIMっぽい自分と、ACIMっぽくない自分の間を行ったり来たりして、随分なエネルギーロスだと思う。

私が非常に疲れやすいのは、そのためのあるのかな。

実は赦したくないのだ、と気づく

一昨日の「赦すとは何か」のダイアリーに「ネガティブな感情を感じた時は、チャンス到来!なんだけど、私はその感情を感じること自体が嫌で、赦しのチャンスからも逃げている気がする。」と書いた。

あとで、それは私がとりもなおさず、「赦したくないからだ」と気づいた。

赦したくないと思っているから、赦しのチャンスに出会わないよう逃げ回っているのだ。

L221をやった時のメモにも「私はACIMの勉強をしている体で、それは限定的なもので、その実エゴの殻に引きこもりエゴを守っていたのか?」とある。エゴをさらに分厚くしているのだとしたら、あ゛~、それはまずい。

そして、その後に「ACIMを見つけられたのだから、自信を持て」とも書いていた。

揺れながら進むというのは、まだまだ続きそう。

第2部-1.赦しとは何か

2018-11-13

11月の色えんぴつ画講座

今日は月一度の色えんぴつ画講座の日だった。

今日の生徒は8名。風景画、クリスマスカード、家猫をモチーフとした年賀状などなど、みんな思い思いのものを描いている。

私は人物画の続き。

先生に教えていただいたとおり、青赤黄+白黒の5色を使って、青→赤→黄色→黒→白の順に色を重ねていった。

先生は、褒めて伸ばす指導法で、それぞれのいいところを言ってくれる。だから楽しい。(生徒みんな大人だし、趣味だし。厳しくされたらいなくなっちゃう…(^_^;))

落書き帳に落書きを描くように、気負わず日常的にたくさん描くのが上達のコツ、と先生の小さなラフスケッチ帳を見せてもらった。

意外だった。

絵って、音楽と同じように才能かな、と思っていたから。

この歳でも伸びしろがあるのか…

私は写真を写して描いているけど、クラスにはまったく何にも見ないで自分のイマジネーションだけでいろんなものを組み合わせて不思議な素敵な絵を描かれる方がいる。

ただ写すのじゃなくて、そうやって描けるようになったらすごい楽しいだろうな~と思う。

赦しとは何か

さてさて。

ワークブック第2部では、「毎日のレッスンとその後に訪れる言葉を超えた深い体験の時間に加えて、時折、特別な関連テーマの解説が挿入される。」(第2部序文11-2)とある。

その最初が「赦しとは何か

1pの短い文章に「赦し」が書かれている。

赦しは、兄弟から自分に為されたとあなたが思っていたことは、起ってはいなかったと認識する。」(第2部、1-1)

この文が赦しの根幹であり、『奇跡講座』ワーク全体の根幹でもある。

為されたことを許してあげるのではなく、それは為されてはいないのだ、と認めること。

赦しは、罪をただ虚偽と見るので、それを手放すのみである。」(第2部、1-6)

観念的には、そうかな、と思える。

が!これが、非常に、非常にむずかしい。

だって、現に今目の前で起っていることだから。

事が起こった時に、押し寄せてくる感情に飲まれてしまって、それが夢だとは瞬時に思い出せない。

どんなことがあっても、「本当は起っていない」とはなかなか…。

赦しの手順はシンプルで、

  1. 思い出す
  2. 手放す
  3. 聖霊におまかせ

の3ステップだ。

悪い魔法の解毒みたい。

感情がネガティブに振れたときは、悪い魔法を見破るチャンスで、その時に魔法を解くおまじないをする。

私たちは、巨大なゲームのなかにいるようなもので、それは赦しゲーム。聖霊のアドバイスを得ながら、赦して赦してクリアしていく。

ネガティブな感情を感じた時は、チャンス到来!なんだけど、私はその感情を感じること自体が嫌で、赦しのチャンスからも逃げている気がする。

畳の上で、水泳は上達しない。

古くからの言葉で言うと、習うより慣れろ、か?

ふと思った。絵も、赦しも、習うより慣れろ?

第2部へ

2018-11-11

ようやく第2部に入った。

この『奇跡講座』ワークプロジェクトは、学びはゆっくりながら、気づけば私の根幹になっている。

これは宗教ではない。自分の霊性の学びだという。

組織に属する必要がなく“自学自習の書”というのが、私に合っていると思う。

第2部では、あまり言葉はあまり意味を持たなくなり、神なる真理の直接的体験を求めるという。ワークはその直接的体験に向けて自分の内側に入るための導入部として機能する。

これからも、朝と夜に好きなだけの時間を神と過ごすことを素づけていく。」(第2部序文2-6)「また日中は、忘れずに一時間ごとに神を思い出す。第2部序文2-9)

初回のワーク時は、第2部に少し苦手意識を持っていた。

「父なる神」としての擬人化がさらに強まった感じがあり、それがなじまなかったのだ。今回はどうかな。

好きなフレーズはこれ。

神を迎えることが自分の意志だと認識したあなたを訪れることが、神の意志である。そしてたとえ漠然とでも、それが自分の意志だと見なしていなかったら、あなたは決してここまでこられなかったはずである。」(第2部序文5-6,7)

この後半の文に自信と勇気がもらえる。

第1巡目にどんなことを書いているかな?と過去ノートを見てみたら、2015年3月5日に

「今日から第2部だ。“神の声をきく”というが、聖霊の声もキャッチできていないのに…」というメモ書きがあった。

ACIMのブログを作りたいとも書いていた。それに対して、「こわい、どのスタンス(立ち位置)で書いたらいいのかが、まずわからない。」とも。

私、変わってないな(^_^;)

でも、ともかくACIMから離れずやっている。

世間的には紛れもなく退化で、自分的には退化なんだか進化なんだかわからないけど。

(“進化”と入力しようとしたら、私のパソコンは変換がおかしくて何度入れようととても“芯化”になってしまった。)

もしかして、ACIM学習とは芯に向かうこと=芯化なのかな?

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