201~220(復習Ⅵ)

ACIMレッスン211-レッスン191の復習

2018-10-01

台風24号通過

昨夜は、台風24号が関東を通過、マンションごと吹き飛ばされそうな、ものすごい風音だった。

家の中は安全なはずと思っても、怖くてなかなか寝付けなかった(参考:2018.7.4記事。ふとんをすっぽりかぶって縮こまり、今やっているレッスン(L213=L193の復習)の文言、

私は赦す。だから、これは消えていく。」(L193-13-3)と何度も唱えた。恐いのは収まらなかったけど、いつの間にか眠っていたらしい。

翌朝の散歩でも、店のテントが落ちてしまっていたり、ショールームの植木が倒れて植木鉢が壊れたり、といった台風の爪痕があった。

沖縄では高さ25mの巨大観音が倒れて損壊したとか。「非常に強い」台風は昔からこんなに多かったっけ?

これも、地球温暖化の影響なのかな?

「経済発展」のつけを環境に払わせてきた、その代償なのか?これは、、いったい、、発展していると言えるのかな?

それとも、これもやはり赦すべきことなんだろうか(たぶん、そうだ)。

レッスン211―レッスン191の復習

(レッスン191)私は神ご自身の聖なる子である。

私たちの真のアイデンティティは、「神の子」(the holy Son of God)だ。

罪と恐怖を司る神ではなく、愛と感謝そのものの神の子だ。

これを受け入れること。

そして、神がこの世を創ったのではないと知り、神以外のものを手放すことで、この世から解放されること。

これがACIMの道のりだ。

いつも思う。とってもシンプルだ。

だけど、この世はあまりにリアルだし馴染みがある(ここしか知らない)から、私たちは自分が本当は誰なのかを忘れたまま、ここでの出来事に大忙しだ。

だがこれは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外の何だろうか。」(L191-4-1)

私は、この文章がとても好きだ。

これを話したイエスはとてもユーモアのあると思う。

この世は「自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム」…かぁ。

あなたは死のゲームに興じ、自分に対し無慈悲な世界で、哀れにも破滅に向かう無力な者を演じている。」(L191-9-3)

なるほど。

たしかに。

どんなに栄華を極めても、結局は何十年後かに必ず衰えて死ぬという人の運命。

だけど、だけど、

「神の子」だと心から受け入れそのように振舞えば、「死のゲーム」は終わる。「神の子」は永遠だ。

不思議なのはこの世で渦中に入ったとたん、ACIMの教えが信じにくくなったり、あるいは後から考えると自分に都合がいいように歪曲してしまうことだ。

次に渦中にあるとき覚えていられたらいいと思う。

「削ぎ落せ」

このワークをやっていて感じたことは、「削ぎ落せ」ということ。

引っ越しでけっこう断捨離できたつもりだけど、まだまだいらないものをたくさんくっつけているんだ、と思う。

そして、隙あらば、さらに「いらないもの」を増やそうともしている。

自分でないものを削いで、削いで、自分になっていく。

それと、このワークに直接関係ないけれど、私には根深いところでおカネに対するブロックがあることが思い浮かんだ。

最近、新たな収入の源を祈りの祭壇に捧げているのだ(新たな自分の収入源を求めていて、祭壇に捧げ、日中はそのことを忘れる…)。

おカネはおカネという金額ではなく、豊かさの映しだ。豊かであってもいっこうに構わない(構わないどころか、とても求めている)。

そしてまず、今ここでこうして過ごせていられることは、とてもありがたいこと。そのことに感謝。

まず、そこからだ、と感じた。

ACIMレッスン210-レッスン190の復習

2018-09-29

秋風にさそわれてバスに乗る

昨日は秋風が吹くさわやかな快晴だった。翌日からはまた雨模様だという。ふっと出かけたくなった。

でも、どこへ?

心がどこかに行きたがってるだけで、具体的にここに行きたいというのはない。考えたり段取りする気力もなかった。

もうすぐ4時。出かけるなら出ないと。

…で、ない気力を集めて考えて、外出先に選んだのが、バスに乗って行ける、おいしいと評判のパン屋さん。

これだったら、ちょっとした気分転換になる。おカネも使わないし電車よりも気負わなくていい。

…と、バスに揺られて初めての街へ。

けど、そのパン屋さんの住所を訪ねるも、見当らず。ビルはがらんどう。中を覗くとコンクリートがむき出しになっていた。

あれっ、まちがえたかな?と住所を確認する。

合っている。外観写真も間違えない。

スマホで「○○(パン屋さんの名前) 閉店」と入れて検索してみたけれど、情報はない。「食べログ」にも「おいしい」のレビューだけで「閉店」の文字はなかった。

キツネにつままれたみたい。でも、わざわざ訪ねた店がなくなっているというのが、今の自分に合っているんだ、と思った。

どこか、行きたかった。そのどこかはここだった。

仕方なくうろうろしていたら、ダイソーがあった。

おー、ダイソー!

ダイソーは旧居の近くにあってよく買物していたが、今は近所になくて、ダイソーがあればなぁ、と思っていたんだ。

うれしくなって、食器洗い用スポンジやお掃除シート、ホットケーキミックス、黒糖ピーナッツなどなど15点買った。

気づくと外はまっくら。買物袋を抱えてバスに乗った。3時間足らずの旅。

また台風が来るらしい。被害がないといい。

秋のうちに、本1冊持って一日どこかに行きたい。

レッスン210―レッスン190の復習

(レッスン190)私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

レッスン190には心強さを感じる。

私はどこかしら、苦しまなくてはならないと思っているところがある。で、苦しいのはヤダな、とも思っている。

それを「苦痛とは、間違った見方である。」(L190-1-1)「苦痛は自己欺瞞の証しである。」(L190-1-2)と言ってくれるから。

もしかしたら、苦しんでこそ、その分幸せになれる(なっていい)という観念は、私だけではないかもしれない。

世間にも苦労を美化する価値観があり、学校でも苦と楽はセットだと教えられてきた気がする。

でも、

苦痛とは、罪悪の想念が形となって現れたものであり、それがあなたの神聖な心をひどく傷つけている。苦痛とは、自由にならないためにあなたが喜んで支払った代償である。」(L190-8-1,2)

とACIMは言う。

罪なき心は苦しむことはできない

この世は想念を映した結果の世界。

原因の世界で、この世の喜び、幸せを妨げているものを取り除く。

元々が神のしあわせ、喜びの中にあったものを、自らの間違った想念で苦しみを掴んでいるわけだから、

一言でいうと、「自分で自分の邪魔をしない」ということか。

無罪の心が苦しむことはありえない」(テキストV-5-1)のだから、罪悪感さえ手放すことができたら、もっともっと喜びに満ちた世界を創りだせるかもしれない。

わざわざ、“苦しさ”“痛み”の重りをつけたくはない、と思う。

その一方、そういうことを考えている私って、人から見たら、すごくわがままな甘えた人間だよなぁ、と思う(これって罪悪感かな?)。とっても人に言えないーとも、思っている(こっちは恐怖感か…)。

ACIMレッスン209-レッスン189の復習

2018-09-24

えー、もう年賀状!?

暑さ寒さも彼岸までというけれど、あの猛暑の日々が遠くなり、朝は肌寒く感じることも。

お盆に帰省した時、母から来年の年賀状を作ってほしいと言われた。

「このくそ暑いのに?もー年賀状!?」とのけぞった。

何でも去年私が母用に作ったのが派手派手しくて好きじゃなかったらしい。ぎりぎりになってからでは落ち着かないと言う。

スル―していたけど数日前また電話で年賀状のことを話していたので、昔ながらの絵柄のをデザイン案を2パターン作り官製はがきに印刷して出してきた(ほんとはイノシシのイラストがいいんだろうけど、母のいう昔ながらのが見つけられなかった)。

郵便屋さんは「謹賀新年」の文字を見て、何事かと思ったかな?いちいちそんな反応しないか。

母は昔からいわゆる仕事ができるタイプで、何でも前倒しで片づける。大事なことでも先延ばしして現実逃避しがちな私とは対極だ。

平成31年ー平成最後の年賀状。

平成の次の元号の時代には、年賀状なんてものが消えているかもしれない。わざわざ紙で挨拶ってー、と。

母にはそんなに生き急がないで、と言いたい。

レッスン209―レッスン189の復習

(レッスン189)私は今、自分の中に神の愛を感じる。

私たちには、幻想を通り越した心の内に、神の愛を宿している。

しかし、それは大概この世の暮らしでは忘れられている。

神の愛は、この世を愛で照らす光である。

この光を通して見れば、世界は愛で溢れたものとなるが、この光が感じられなければ、この世は攻撃や憎悪に満ちたものに見える。

あなたは何を見たいだろう。その選択はあなたに与えられている。だから、「人は自らの内に感じているものを見ることになる」という知覚の法則を学び、自分の心にそれを忘れさせてはならない。」(L189-5-1,2,3)

そして、レッスン189では、その内なる愛に到達しようと努める。愛と愛がもたらす視覚を感じようとする。

その方法は、「あなたの心が、真実だとか偽りだとか、よいとか悪いとか思っているすべてのもの、価値があると判断する想念、あるいは恥じているすべての概念を取り去り、あなたの心を空にしなさい。」(L189-7-2)

求めなさい。そして、受け取りなさい。しかし神にあれこれと要求してはならない。」(L189-8-5)

わからなくていい、心を空にする、受けとる

私はこの世を幻想と見ることには熱心だったけれど、愛する、愛の目で見る、愛を運ぶ、といった点についてはあまり意識を向けてこなかった。

私には「愛」という抽象名詞が遠い。好きだ、優しい、あったかい、愛おしい、はまだなじみがあるけど。

つまりは、愛がわからない。

でも、「あなたへの道を知っているのは神のほうではないだろうか。あなたが神への道を知っている必要はない。」(L189-8-1,2)という。だから、ただ、心を空にして自分で自分の邪魔をせずに、求めよう。

神に至る道はただ神を神のままに在らせることである。そのようにしてあなたの実相も宣言されるからである。」(L189-8-7,8)

心を空にする、秋。

これが難しいんだな~、つい過去を振りかえったり四の五の分析したくなっている。

ACIMレッスン208-レッスン188の復習

2018-09-21

「なぞの出荷メール」のその後

おととい来た「身に覚えのない、なぞの出荷メール」の「お荷物追跡番号」にはリンクが付いていた。

知らない所からのメールのそういうのは押しちゃいけない、と思ったけれど、実存する配送業者名のようだしどうにも気になって今朝iphonからポチっと押してみた。

実際の荷物の追跡ページに飛んだ。そして、

「Delivered(配達済み)」と。

えっ、配達済み?いつ?

てか、どこに??

配達時間は、September 20,2018 at 3:03pm

お届け先には、NEW YORKという表記と番地が…。

「Tracing History」には、日本の宅配業者と同様、出発地の場所と時間と営業所など途中の経由地の発着も記載してある。

よくわからないけれど、荷物は無事配送されたらしい。

? ? ?

私は手配した記憶がないのだから、誰かが私のメールアドレスで手配して、カリフォルニア州のビスタというところにある会社からニューヨークへ何かを送った、らしい。

(・・?

ぶきみだ。

でも、深追いしないことにしよう。

これからも送られてくるようだったら、その時に考えよう。

レッスン208―レッスン188の復習

(レッスン188)神の平安は今、私の中に輝いている。

…でしょうね。

その神の平安は記憶から遠くて、かすかに細ーいクモの糸みたいなものでつながっているかいないかくらいの、心もとなさだ。

それでも、私が『奇跡講座』に惹かれたのは、それが真実だと感じたからだ。

この世の中は不合理なことや無意味に見えることばかりだったけれど、『神の使者』や『奇跡講座』を知って、それが言うことを受け入れると、スッキリパズルのピースが嵌る。

たぶん、そうなんだろうと思う。腑に落ちる、という感覚。

悟りとは認識にほかならず、変化のことなどではない。」(L188-1-4)

これもそうか、と頷ける。

ただ、その認識がとっても難しいんだよなぁ。

いっくら、この世も自分の体も幻想だって言っても、空気も水もまた幻想で、そういうものがここに自分としている間、やっぱり要るし。

お腹だってすくし、痛いのやだし。

その認識の変化には、うんと真剣な長い訓練がいるのだ。

訓練の間には、エゴがガタつき大騒ぎする。

今は、その両方の間を行ったり来たりしている感じなのかな?

というより、どうひいき目に見ても、圧倒的にエゴがまだ優勢、ほぼエゴに牛耳られている。

それでもACIM的なものから離れるとフェイドアウトしてまったく忘れてしまうから、離れないようにすることをやっている。

昔、羊毛ボウルを作るというワークショップに出たとき、ボウルの芯になる部分をしっかり作るのがコツと聞いた。

それを思い出す。

今世は芯づくりだけで終わっちゃうかもしれないな。

彼は自分の中の真理を認識したからこそ赦すのである。神の平安は、今あなたの中に、そして生きとし生けるものの中に輝く。静けさの中でそれはあらゆるところに認められる。あなたの内なる視覚が眺めるものが、すなわちあなたの宇宙についての知覚だからである。」(L188-5-4,5,6)

いつか、こういう視覚を手に入れて、この世を眺めてみたい。

神の平安は今、私の中に輝いている。

その平安の中で、すべてが私を照らしますように。

私が自分の内なる光により一切を祝福できますように。」(L188-10-6,7)

ACIMレッスン207-レッスン187の復習

2018-09-18

レッスン207―レッスン187の復習

(レッスン187)私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

ここでは、この世での知覚と真の知覚の違いが述べられている。

・この世 ⇒ 持っているものを与えるとなくなる

・真理の世界 ⇒ 与えることは増やすこと

この理屈がなりたつのは、この世にある形あるものは、それを作り出す想念を表現しているから。

なので、

・形あるもの → いずれ、変化する、なくならない

・想念 → なくらならない。与えることで強化される

となる。

実は、与えている相手は自分である。

神の子である私たちは個々それぞれが存在しているかのように見え、そのそれぞれの角度からこの世を見ているが、本当はひとつだから。

もし、犠牲という概念があるようなら、誤っている。それは赦すべきこと。

その奥には、神からの分離という誤解と、それがもたらす恐れがある。

私たちは、自らを祝福する。

だから、その目に映る世界は祝福されたものとなる。

ACIMワークを知ることと実行することの間に乖離あり

自分が価値を置く一切を与え放つことによって、それを守りなさい。」(L187-4-1)

喜んで与えなさい。それにより、あなたはただ得るのみである。想念は残り、与えることによって強化され、さらに強力なものになる。」(L187-5-1)

とあり、これらの文言には、なるほど~と思うけれど、いざ実行を迫られると、その信念はふにゃふにゃなものだと気づく。

数年前元だんなさんに大金を貸していた時、なかなか約束通りには返されず(それができない状況にあったらしい)、「ACIMの教えによれば、これは“手放すべきもの”では?」とも考えたけど、そうは簡単には手放すことはできなかった。

その時は、その背後にある想念もまた、彼への執着だった(このレッスンの例としてはふさわしくないとも思うけど、なんとなく思い出した)。

その執着とは、彼に投影した私自身のエゴへの執着だったか。

特別の愛と、特別の憎悪と、おカネそのものへの執着と、赦すべき事柄のオンパレードだった。

今もそんなに変わってないかな?

赦して穏やかになったというより、対象が遠ざかったから反応しなくて済んでいるだけというのが、正しい気がする。

そして、今もいろんな不安や恐怖感がある。

神への恐怖をこの世に見ているんだと思う。

それでも玉ねぎの皮を剥くように、少しは落とせてきているんだろうか。

ワークブックを読んでいると、とても私にはできそうにないことばかり書かれていて、空恐ろしくなる。。。ことがある。

ACIMレッスン206-レッスン186の復習

2018-09-14

攻撃を感謝で交した大坂なおみさんって、すごいな

テニスの全米オープン女子シングルスで優勝した大坂なおみさんが、帰国された(いつもはどこに住んでおられるんだろ?帰国でいいのかな?)。

 
 
 
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一躍時の人になって大人気だ。

日本人(だけじゃないだろうけど)の心の刺さるのは、やっぱり決勝でセリーナ・ウィリアムズさんに勝った後のコメントだ。

I know that everyone was cheering for her and I’m sorry it had to end like this.....

I just wanna say thank you for watching the match. Thank you.

(みんながセリーナを応援していたことは知ってます。こんな終わり方ですみません。ただ、試合を見てくださって、ありがとうございます。)」

あれだけ大きな会場で大勢の人の不満(攻撃性)が渦巻くなか、そのフックには引っかかることなく、感謝だけを述べられた。

その対応にふいを突かれ、瞬間みな正気を取り戻した気がする。振りかざされた剣は下ろされた。

なかなかできることじゃない、と思う。

およそ邪気がない。

飾り気もなく、これがこの人の質なんだろう。

すごいな。尊敬する。

ワークで始終「赦し、赦し」と唱えながらも、電車で人に押されただけでも一瞬えっ!?と反応してしまう私。見習わなくては。

人は歳を重ねて成長する、っていうけど、そうとは限らないな。

いくら努めても、私はあの精神性には届きそうにない。

トップレベルでの勝負の世界にいながらも、そこから一歩離れれば謙虚でシャイ、無邪気。

それってやっぱりすごいことだなぁと思う。

トップになってもそのまま変わらないでいてほしいな、なんていうのは、まったく余計な杞憂だよね。

レッスン206―レッスン186の復習

ワークのダイアリーを書くつもりが、前段が長くなってしまった。

(レッスン186)世界の救済は私にかかっている。

えらく大げさな言い回しだけど、この理屈は、私には信じられる。

私自身の想念が映しだして見せてくれる世界なのだから、と思えば。

ただそう覚えていられるのは、自分が何かの渦中に入るまで。

渦中に入ったら、それが小さな渦でもたちまち飲まれてわからなくなってしまう。

あなたはあなたの自己像のように弱くはない。」(L186-6-3)

今回改めて、レッスン186を読んで印象に残ったところ。

そうかな?

私は、学習し出した頃よりACIMの理解度は深まっているとは思う反面、仕事もしておらず社会的な立場がなく、逆に(社会的には)自信がなくなり萎縮している。だから、これが気になったのかな。

自信が持てず萎縮している自分というのは、ACIMでは「傲慢さ」となるんだろうか。

聖霊が話すとき、あなたの自己像は自らの土台が崩れるのを感じて戦慄し、自分の知らない脅威に向かって攻撃しようとする。それが消え去るままにしておきなさい。」(L186-7-2,3)

聖霊の考えとエゴの考えはあまりにも違うから、私は今や両方のマーブル状だ(それとも、どちらでもなくまったく間違えたところに入りこんでいるのか…)。

どういう価値判断が正しいのかわからない(判断がエゴのものだとしても、それなくしてはここでやっていけない)。

秋口のせいか、揺ぐ。考えがまとまらないけれど、ともかく目先のマイプロジェクトを進めようと思う。

ACIMレッスン205-レッスン185の復習

2018-09-12

新パソコンその後

新パソコンにおそるおそる電源を入れたら、「いっしょに設定しましょう」と女性の声に話しかけられ、一瞬固まる。

そうか、今はいきなり話しかけてくる仕様なのか…。

言われるがままに、wifi機器の暗号みたいなのを探して入力したらインターネットにつながった。以前に買ったセキュリティソフト会社のサイトにログインしたら(3台まで可だった)セキュリティ完了、ネットで調べて「リカバリーメディア」なるものも作った。

Windows10に慣れず、タッチパッドに慣れず…だけど、電源を入れるまでが一番ハードルが高かった。おいおいに慣れていこう。

パソコンを買い替えることができたのも、住み替えによる「差益」のおかげ。ありがたい。

レッスン205-レッスン185の復習

(レッスン185)私は神の平安を欲する。

もし神なる平安があるならば、それを望まない人はいないのではないか。

ただこれを本気で望むとなれば、話は別。

神の平安を望むと本気で言うことは、一切の夢を放棄することである。」(L185-5-1)

ここがとっても、とっても難しい。

今いるここは、自分の想念が映しだす影絵のようなところで、結果の世界だ。結果の世界で夢をやりくりするのではなく、原因(想念)の世界を変えなければ、とどのつまり結果は変わらないのだと学んだ。

でも、やっぱり、自分は体を持ってここにいるように見えるし、結果の世界をいじくることでも満足度が高まる経験をしているから、一切を放棄するとなると躊躇してしまう。

今日の練習ではあなたが依然として大切にしている夢を探しだすために、心の中を念入りに検索する。」(L185-8-1)

              ⇓

何が自分に慰めと幸福をもたらすと信じているのかだけをよく考えなさい。」(L185-8-4)

              ⇓

…一つの問いがなされなければならない。

『これが、天国や平安のかわりに私が望んでいるものだろうか』と。」(L185-8-7)

神の平安を選ぶのでなければ、夢を求めたことになる。」(L185-9-4)

あ゛…、そうですよね  |゚ェ゚;)、

私は、健康や若さを求めている。

それを平安や天国のかわりに求めているのか。

平安への道具として求めているつもり。でも、そこに執着して、やはり仮想をリアルにしているんだろうか。

この世のフィールド(レイヤー?)に立つのではなく、

その下に、自分なりの、聖霊に従ったフィールド(レイヤー?)をこの世で作る。

罪悪感と恐怖を手放し、感謝と豊かさ、愛で廻るフィールドを。

言うは易しだけど…。

私が扱えるのは、自分の無意識から意識に浮かび上がってきた部分だけだから、嫌なこと、腹立たしいこと、怖いこと、後悔、罪悪感などが浮かんできたら、なるたけ、手放していこう。

平安こそが自分が望むすべてである、と本気で言う心は、必ずほかの心とつながることになる。ほかの心とつながることが平安を得る方法だからである。」(L185-6-2,2)というレベルにいずれ行きたいなぁ。

ACIMレッスン204-レッスン184の復習

2018-09-06

北海道で大地震、備えていない私

目覚めてスマホ画面を見て、びっくりした。

最大震度6強、とある。

地震?

北海道…? 午前3時8分…。

今度は地震?…、と思ってしまった。

テレビを付けたら、土砂崩れ、液状化、家屋倒壊といった怖ろしい映像が映った。被害はまだ明らかではない。もっと広がるだろう。

このタイミングで…だけど、9月1日は防災の日だからだろうか。マンションの管理組合さんから、各住戸に水と乾パンが配られた。

備蓄していたものの賞味期限が近くなってきたため、各戸に配って新しいものを買うのだとか。

「この乾パン、けっこうおいしいらしいよ」と管理人さん。

東京など人口が多いエリアで大地震が起こったら、人が多すぎて、救助どころではないだろう。中枢の交通網やインフラにダメージが起こったら、人も流通も大混乱。もうそれだけでパニック、カオスではないだろうか。

まず電気が止まった段階で、エレベーターは使えない。水もダメとなると…。

東日本大震災後、一時人気が落ちたタワーマンションだが、再びここ数年都心湾岸で人気↗、都心の地価上昇に一役買っていた。大丈夫かな?

…というより、私だ。

災害への備え…まったくしてない。

備蓄。料理に使うサバ缶とシーチキンくらい(備蓄とは言わないか)。

いくらずぼらでも…、

これだけあちこちで災害が起きているのだから、少しずつでも準備しよう。

レッスン204-レッスン184の復習

(レッスン184)神の名は、私が受け継いだ賜物である。

このレッスンでは、この世における「名づけ」の意味が示されていた。

名つけとは、

1.自分と切り離して認識するための手段であり(分離化)、

2.名づけることによって、自らが統治でき(自らを神とする)、

3.幻想に現実味を付与する。

すなわち、この分離した幻想社会を形づくるための有力な手段だという。

そして、私たちは幼い頃から長い時間をかけて、名づけられたものを習得してきた。それこそが、ここでの学びでありコミュニケーションの手段だ。

でも、ここで大事なのは、それをリアルとはしないこと。

自分が世界を作ったと考えてはならない。幻想ならば確かに作り出した!しかし地においても天においても真実なるものは、あなたによる命名を超えたものである。」(L184-8-1)

闇の世界を描写する卑小な名称や象徴はいくらでも使ってかまわない。しかしそれらをあなたの実相として受け入れてはならない。」(L184-11-1)

無数の名づけによって成立しているこの世で、たくさんの名を用いながらも、それを超えて真実を見る。

意志疎通コミュニケーション と真の 親交コミュニケーションは別のものだ。

周りの人のなかに神の子を見る。

神に名はない。

ただすべてが、つまるところ神に集約されていき、ただそれだけになる、という意味で、それは一なるものの象徴であり、一なる名である。

それはまた、私たちにそもそも与えられている、備わった名だ。

肉体でない、だけど健康づくりはしたい

復習Ⅵとして、それぞれのレッスンの復習とともに軸となる概念を学んでいる。

私は肉体ではない。私は自由である。私は今も神が創造したままの私だから。

私は肉体ではない。

私は引っ越して落ち着いたらいくつかの身体の不具合に対処したり(病院苦手で先延ばししてきた)、筋トレ・ストレッチなどの体づくりをしたいと思っていた。

そして、今もやはりそう思っている。

肉体ではないと思うことと、体への配慮は矛盾しないよね?

それも、また体をリアルにしてしまうことなんだろうか。

ACIMレッスン203-レッスン183の復習

2018-09-05

台風21号去る

あ゛…、コーヒー…、今日もやってしまった。(参考日記:レッスン202-レッスン182の復習

粉を少なめにした上に溢れされてしまい、今日も薄いコーヒーになった。二日連続…、不調なのかな?

台風21号は、関西空港でタンカーが連絡橋に衝突したのを初め、列島各所に大きな爪痕を残して去っていった。

今朝のウォーキング時にも、大きな植木鉢が倒れていたり、大きな枝が折れて飛ばされていたりしたのを見た。

私が数日前にgetして喜んでいた小枝の類もたくさん…たくさん落ちていた。

最近「異常気象」とか「例年に類のない」といった言葉を「頻繁に」聞くようになった気がする。もはや平時が異常になった時代ー非常時時代ーなんだろう。

台風は去ったが、家の外ではヒューヒュー、ビュービュー、今日もものすごい風の音だ。少し慣れたけど、怖い。特に不意に鳴る高音の風が(>_<)

レッスン203-レッスン183の復習

(レッスン183)私は神の名と私自身の名に呼びかける。

8/24~28頃にやっていたワークで、ワークをした日から日にちが経っているから、何だっけ?となっている。なるたけ乖離を縮めたい。

「神の名を繰り返しなさい。」(L183-3-1)

すべての名は幻想に名づけられたものだが、唯一名があるとすればそれは神であり、神に呼びかける者は自らの神性に呼びかける者だ。

私たちの神性はここで眠った状態だが、神の名を呼ぶことは自らの神性を揺り起こすことに他ならない。

私たちの内に神はある。

神は外に探すものではなく、内に開くものだ。

すでに在るものを解き開くのだから。

宇宙は唯一、父に呼びかける神の子だけで構成されている。」(L183-11-4)

絵を描く目的がわかった…?

このワークをやっていた頃のノートには「絵を描く目的がわかった」と書いている。

ワークをやっていたのは、ちょうど色えんぴつ画の作品展の時だった。

先に色えんぴつ画を習っていた友人の作品展を見て「すごいね~、色えんぴつで描いたとは思えないよ」と言ったことがきっかけで、私も始めることになったのだけど、正直絵を描く目的はなかった。

趣味を聞かれても何も答えられなかったから「月1回で負担も少ないし、これを趣味とすればいいかな」と、やや不純な動機だった。

でも、最近先生が出された題材ではなく自由画を描くようになって、私は「神さまを感じる瞬間」や「神性の癒し」のようなものを描きたいのだと思った。

もしかしたら、他のみんなもそうなのかな?

自分が感じる何か、と描きたいんだよね。

下手でいい。かたちのない神を見えるかたちにする。

私自身が神性を感じた瞬間を集めていくといいかもしれない、と感じた。

ACIMレッスン202-レッスン182の復習

2018-09-04

朝のコーヒーが占う心模様

毎朝自作のマグカップに、プラスチックのドリッパーを乗せてひとり分のコーヒーを入れる。

マグカップは昔むかし区の陶芸講座で作ったもの。講座中作ったもののなかでいちばん不格好だ。でもそれでか逆に癒される。ドリッパーがぴったり収まってコーヒーを入れやすいところも気に入って、もう15年以上毎日使っている。

コーヒーを入れる時、自分の心理状態がわかる。

小さな鍋から少しずつお湯を注ぐのだけど(やかんは持っていない)、自分でも気づかないうちに、心ここにあらずだったり不調な時は、お湯を入れ過ぎて溢れさせてしまうのだ。

今日がその日だった。

あ゛…しまった、こんなに。

気をつけよう。

非常に強い台風21号が来ているというから、それも影響しているのかな。

もはや外は風がびゅーびゅー鳴っている。ベランダのものは全部家に入れた。

7月の豪雨や台風20号のダメージがまだ残っているところも多いだろうに…、なるたけ被害が少なく通り過ぎますように。

レッスン202-レッスン182の復習

(レッスン182)私は、一瞬の間静まり、家に帰る。

レッスン182は、お盆が終わって東京に戻ってきた頃やっていたワーク(ワークと日記が離れすぎ)。その頃は台風19号と20号がいっぺんに近づいていた。今年は台風多い…。

私たちは、この宇宙のなかの地球のここがわが家だと思っているけれど、ここは私たちが本来いるところではない。

遠い記憶のどこかで、私たちはそのことを知っている。

だけど、ここでうまくやるには、そんなことに係ってはいられないとも思っている。だいたいに忙しくてそんなこと考えている暇などない。

でも、心の中には幼子がいて離れた親を探すかのように「ここじゃない、お家に帰りたい」と訴えている。

その子は、私たちの内なる無垢性の象徴だ。

その子は、私たちが急ぐ道がどこにも行きつかないことを知っている。私たちがこの世で役立ちそうな道具ばかり集めるが使わずじまいで身動きが取れなくなっていることも知っている。

内なる子どもの声を聴くには、スペースが必要だ。空間と時間。

そして心。

空いた時間と場所と心があれば、無垢な幼子はいつでもどこでも顔を出す。

思い切ってこの子に道案内を任せよう。

…と、そんなことを言っている(ような気がする)。

「防衛しないことの強さ」が欲しい

幼子の無垢性は素晴らしい。

そして、私が憧れるのは、その子が象徴する「防衛しないことの強さ」だ。

防衛しなければならないと思うがゆえ、常に周りを気にしテンパっていてエネルギーが無駄に必要だった、しかも自分から遠ざかっていた気がするから。

私が防衛するということは、裏を返せば、私には攻撃する気があるということだろう。

その攻撃性を少しずつ減らしていきたい。

その攻撃性は自分に向けられているものでなんの役にも立たないものだと知っているのだから。

自分のなかにいる無垢な幼子を安心させたい。

その幼子が手を引いていくところに向かうとしたら、その子は私をどこに連れて行こうとするだろうか。

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