201~220(復習Ⅵ)

ACIMレッスン215-レッスン195の復習

2018-10-16

レッスン214―レッスン194の復習

(レッスン195)愛は私が感謝の内に歩む道である。

レッスン195には、愛と感謝のことが書いてある(ように思う)。

私は、未だ、「愛」がわかるようなわからないような。

好き、はわかる。

大事、はわかる。

愛おしいも、わかる。

離れたくない、もわかる。

それが愛? 情ではなくて?

とか言いだすとわからなくなる。

この世で愛と言われているものはその多くが、「所有権」や「執着」なのかもしれないと思い始めると、愛という言葉を使うのにも躊躇してしまう。

そういう私にとって、レッスン195は少し難しく感じられる。

私にとっては、感謝の方がわかりやすいから、愛はさておき感謝から学ぼうかと思っている。

他の人が苦しんでいる時に、わが境遇に感謝することは、感謝ではない

愛は比較しない。そして、感謝は、愛とつながっているときにのみ真摯なものでありえる。」(L195-4-2,3)

これは、私たちが「自分の方がましだ」と他人の苦難を見て「感謝」しがちなことへの諌めだ。

感謝は他者との比較から生まれるものでは、決してない。

絶対的なものなのだ。

それは、神と自分との関係を表すものだから。

私たちが、他人と比較して一喜一憂してしまうのは、神の愛や豊かさ、よいことには、一定の量があり、それをみんなで奪い合っているという妄想があるからだ。

エゴが主導する幻想の世はそうかもしれないけれど、神はゼロサムゲームではない。

感謝は神との関係において、ただすること

私たちは一つのころについてのみ、父に感謝する。すなわち、行きとし生けるものから私たちは分離しておらず、だから神とひとつであるということだけに感謝する。」(L195-6-1)

感謝とは、ただただすることだ。

それは、神への信頼を表すことだ。

そして感謝をすればするほど、副次的効果として豊かさももたらされるのだと思う。

それは、神と私たちの間を阻むかのような「雲」を取り払う行為に他ならないから。

神との関係がクリアになり、無限の豊かさ、愛、喜びに近づけるから。

なかなか抽象的で、掴みにくい話だけど。

感謝とは、愛の一つの側面にほかならない。」(L195-10-3の一部)

愛は感謝以外の道を歩くことはできず、神への道を歩む私たちも、そのように進んでいく。」(L195-10-6)

この二つのフレーズは心に残ったところ。

ACIMレッスン214-レッスン194の復習

2018-10-12

Wordpress講座の落選通知が来た

このブログのカスタマイズのためにぜひ受けたいと思っていた東京都主催のWordpress講座は、昨日あえなく落選の通知が来た(参考記事:2018年10月10日)。

え~!

まさか落選とは…!!

29名の募集に対して59名の応募があったらしい。2倍かぁ。。

この東京都の講習に関しては抽選でも落選になったことはほとんどなかった。Wordpress講座は受講者からの要望で新設されて人気だとは知っていたけれど、根拠なく「私は当選」と思い込んでいた。

そっか~。

一瞬残念だった。が、すぐ、これでいいんだな、と思った。なんでこれでいいかはわからないけれど。

ブログのいくつかを修正したいだけなのだから、その気になって、自分で勉強すればいいことだ。

しかし、講座が人気で抽選だろうと心の中で「私は受けられる」と思っていた自らの“強気”に気づいて、ちょっと驚いた。

そして、残念に思ったのは一瞬だけで、すぐ、これはこれでOK、と思ったことにも。

この世は自分の思いが作っているのだとしたら、本当に必要なものは必ず与えられる(自己が自分のために用意する)。そうならなかったとしたら、そっちが正解だ、という考えがかなり浸透しているのかもしれない。

この世の中の価値観と真逆な道を、手さぐりで歩いているから、実のところわけがわからない。

自分がすごーく向上心のないダメ人間になっている気がする。一方、そうではないんだ、とも思う。

レッスン214―レッスン194の復習

(レッスン194)私は未来を神の手にゆだねる。

(くりかえしブログに書いてもいるけれど)私は未来が不安だ。

不安を通りこし、時おり恐怖を感じる。

ひとつには、今おカネを稼ぐことをせず(できず)、手持ちのおカネを減らしながら生きているから。

もう一つは、善きにつけ悪しきにつけ幼い頃から私の世界に君臨し多大な影響力を持っていた母が、ここ1、2年ぐっと老いてきているから。

この二つは、まったく異なることながら、私が「神からの分離」をリアルに感じる、今この世での投影パターンなのだろう。

ここでも、やるべきことは同じ。

まず赦すこと

そして、今ある状況に感謝すること

そして、このレッスン214(194)の-未来を神の手にゆだねること

そうすれば、必要な情報やなすべき行動は与えられるはず。

そう思う。

ただ、手放したはずの不安や恐怖感は、気づくと、またそこにある。

もっとゆったり構えてもいい?

10月初めこのワークをやった時に感じたことは、意外にも、

「もっとゆったり構えていてもいいんだ。

方向は間違っていない。

不安は都度消せばよい。」

ということだった。

表面的にびびりながらも、心の奥ではOKを出しているということか。

また、何もせず過ぎていく日々に感じる焦りには、

「電車の中で走る必要はないんだ。」

「もっと肩の力を抜け。

姿勢を良くして、しゃんと立て。」

とも。

私は行き先にあった電車に乗っているということだろうか。

心奥ではけっこうな“強気”みたいなのだ、やはり。

絶賛、道楽中!?

こりゃー、えらい道楽だな、と思った。

ふと気になって「道楽」の語源を調べてみたら、

「仏教では『ドウギョウ』と読む。楽は願と同義で、仏道を楽(ねが)うのが道楽の原意である。

この『道楽(どうぎょう)』の意味が転じて、例えば『法華経』に『道を以て楽を受く』と説くように、道を修めて得られる『楽しみ』『悦び』を表すようになる。」という文を発見。(教員エッセイ 読むページ「道楽」より

へ~、そうなんだ?

「道を以て楽を受く」

course(道)を歩み、楽を受けられるまでになったら、文字どおりの「道楽」なんだ、とちょっと感心。

 

ACIMレッスン213-レッスン193の復習

2018-10-08

10月二度目の、夏日の再来

世間は三連休ー。

一昨日は友人とランチ、昨日はパソコン(CSS)の講座で、両日とも1時間半くらい歩いたら、帰宅後はバテバテで動けず。

夏バテの再来?

それも仕方ない、昨日は10月の最多に並ぶ、二度目の真夏日だったたらしい。10月に真夏日、三回あったことはまだないというけど…、また暑さの記録、更新なるか。

書きたいことを書いていると、ワークのダイアリーが進まなくてワーク日と日記に乖離が…^_^;

ワークのダイアリーは、最初は、その時に実際感じたことを掘り下げて書きたいと思っていたけど、実際にはなかなか…。

渦中にいる時は「書けなくなる」、というのがわかった。

まとめにもならない記録しかできないけど、それでも自分にとっては足取りのパン屑だよな~と思う。

レッスン213―レッスン193の復習

(レッスン193)すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。

神の世界には、「赦し」はない。

赦すべきことなど何一つないから、神は赦しとは無縁だ。

神の子である私たちも、本来そういうところにある。

ただ、私たちが今見ているものはそうではない。

宇宙という催眠術にかかった私たちは、本来とは異なるものを目にして、そこでやりこなすルールを見つけて、頑張っている。

でも、残念なことに、頑張っても、最終的に報われない。

この宇宙と、そこで私たちが作ってきた成功のルールは、そもそもまやかしなのだから。

この世界は「結果」にすぎず、「原因と結果の法則」はこの世で動作するものではない。カルマは今世に留まらず、過去から未来へ引き継がれるし、そもそも過去も未来も錯覚にすぎない。

罪をリアルにしているなら、加害と被害のループを繰り返すだけだ。

この世界と宇宙という催眠術から覚めなくては…。

私は赦す。だから、これは消えていく。

そこで、レッスン193のワークだ。

そもそもの催眠術からめざめる魔法のことば。

赦しなさい。そうすれば、あなたはこれを違った見方で見るだろう。」(L193-3-7)

「私は赦す。だから、これは消えていく。」(L193-13-3)

これは、ACIMのエッセンスを具体的に伝えている言葉だと思う。

とくに「私は赦す。だから、これは消えていく。(I will forgive, and this will disappear.)」は、ゲンジツにパニックになっている時に思い出せたら、正気に帰るフックになるかもしれない。

赦すべき想念が自分の内にがあれば、この世にかたちとなって現れる。

それは、この世の必然だ。

本来ないはずのものを見ているならば、それには訂正が必要なのだから。

そういう意味で、「すべてのものごとは、神が私に学ばせようとするレッスンである。」というのはそのとおりだ。

赦すべきことが起こった時は、真実を教えるACIMの思考体系そのものが、うさんくさく感じられる。

「こんなふうになっているのだから、自分が正しい」と思いたくなる。

ACIMを学んでいるつもりでも、数日離れただけで、この世のリアル度が増す。

これから先ACIMにずっと触れていられるかわからない。

大事だと思うことも、ぼろぼろ忘れていく。

この短いおまじない「私は赦す。だから、これは消えていく。(I will forgive, and this will disappear.)」は、自分の心に刻み込んでおきたいと思う。

ACIMレッスン212-レッスン192の復習

2018-10-06

レッスン212―レッスン192の復習

(レッスン192)私には、神が私に全うさせようとする機能はたらきがある。

ACIMのワークブックの訓練を一言でいうと、この機能になる。

すなわち、赦し

許しとはちがう、赦し。

ACIMのワークはとてもシンプルで、ただ目前に現れるものを赦すこと。それによって、あるがままの神の子になっていくこと。それだけだ。

このことを、この世のいろんな言葉で表現してわからせようとしている。

 

では、赦しとは何ぞや。

私たちが見ているこの世界は強固に見えるが、それが実は投影させて見ているバーチャルリアリティである。そのことを認識し、そこへの感情的執着を手放すこと。

すべてが満たさせた愛情と感謝に溢れた状態に戻っていくこと。

本来それはそのまま私たちと在り、私たちが悪い催眠術にかかっているだけなのだから。

これは、「私」が選んで投射している「世界」なので、「世界」を救うのは、私の認識だ。

その認識を変えるためには、赦しという訓練が要る。

赦しの方法について、レッスン192は「この道は単純明快である。」(L192-9-3)として示している。

突き上げてくる怒りを感じるたびに、自らの頭上に剣を振りかざしていることを理解しなさい。

そして、罪を宣言された者となるか、自由な者となるかをあなたが選択するたびに、剣は振りかざされるか、回避されるかのどちらかである。」(L192-9-4,5)

すべて怒りは、実は自分自身への怒り。それを認められず、封じ込めるがために他の人が怒らせることをしたと見えている。

それこそが悪い催眠術だ。

まちがった認知をとりなすこと、それが赦し。

 

赦しはむずかしい。

それは、自分に対する怒りと罪悪感があまりに大きくて、直視したくないから。

悪いのは、自分ではない、これだ。気分が悪いのはあの人のせい。

そう思わせてくれるものを常に必要としている。

いつも、いつも、認知は狂う。

だから、何事もない時になるたけ理屈を勉強しておくことが、自分を律することにつながるんだろうな~。

備えあれば憂いなし!?

赦しはチャンス。

本来の自己にまた少し近づけるチャンス。

ACIMレッスン211-レッスン191の復習

2018-10-01

台風24号通過

昨夜は、台風24号が関東を通過、マンションごと吹き飛ばされそうな、ものすごい風音だった。

家の中は安全なはずと思っても、怖くてなかなか寝付けなかった(参考:2018.7.4記事。ふとんをすっぽりかぶって縮こまり、今やっているレッスン(L213=L193の復習)の文言、

私は赦す。だから、これは消えていく。」(L193-13-3)と何度も唱えた。恐いのは収まらなかったけど、いつの間にか眠っていたらしい。

翌朝の散歩でも、店のテントが落ちてしまっていたり、ショールームの植木が倒れて植木鉢が壊れたり、といった台風の爪痕があった。

沖縄では高さ25mの巨大観音が倒れて損壊したとか。「非常に強い」台風は昔からこんなに多かったっけ?

これも、地球温暖化の影響なのかな?

「経済発展」のつけを環境に払わせてきた、その代償なのか?これは、、いったい、、発展していると言えるのかな?

それとも、これもやはり赦すべきことなんだろうか(たぶん、そうだ)。

レッスン211―レッスン191の復習

(レッスン191)私は神ご自身の聖なる子である。

私たちの真のアイデンティティは、「神の子」(the holy Son of God)だ。

罪と恐怖を司る神ではなく、愛と感謝そのものの神の子だ。

これを受け入れること。

そして、神がこの世を創ったのではないと知り、神以外のものを手放すことで、この世から解放されること。

これがACIMの道のりだ。

いつも思う。とってもシンプルだ。

だけど、この世はあまりにリアルだし馴染みがある(ここしか知らない)から、私たちは自分が本当は誰なのかを忘れたまま、ここでの出来事に大忙しだ。

だがこれは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外の何だろうか。」(L191-4-1)

私は、この文章がとても好きだ。

これを話したイエスはとてもユーモアのあると思う。

この世は「自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム」…かぁ。

あなたは死のゲームに興じ、自分に対し無慈悲な世界で、哀れにも破滅に向かう無力な者を演じている。」(L191-9-3)

なるほど。

たしかに。

どんなに栄華を極めても、結局は何十年後かに必ず衰えて死ぬという人の運命。

だけど、だけど、

「神の子」だと心から受け入れそのように振舞えば、「死のゲーム」は終わる。「神の子」は永遠だ。

不思議なのはこの世で渦中に入ったとたん、ACIMの教えが信じにくくなったり、あるいは後から考えると自分に都合がいいように歪曲してしまうことだ。

次に渦中にあるとき覚えていられたらいいと思う。

「削ぎ落せ」

このワークをやっていて感じたことは、「削ぎ落せ」ということ。

引っ越しでけっこう断捨離できたつもりだけど、まだまだいらないものをたくさんくっつけているんだ、と思う。

そして、隙あらば、さらに「いらないもの」を増やそうともしている。

自分でないものを削いで、削いで、自分になっていく。

それと、このワークに直接関係ないけれど、私には根深いところでおカネに対するブロックがあることが思い浮かんだ。

最近、新たな収入の源を祈りの祭壇に捧げているのだ(新たな自分の収入源を求めていて、祭壇に捧げ、日中はそのことを忘れる…)。

おカネはおカネという金額ではなく、豊かさの映しだ。豊かであってもいっこうに構わない(構わないどころか、とても求めている)。

そしてまず、今ここでこうして過ごせていられることは、とてもありがたいこと。そのことに感謝。

まず、そこからだ、と感じた。

ACIMレッスン210-レッスン190の復習

2018-09-29

秋風にさそわれてバスに乗る

昨日は秋風が吹くさわやかな快晴だった。翌日からはまた雨模様だという。ふっと出かけたくなった。

でも、どこへ?

心がどこかに行きたがってるだけで、具体的にここに行きたいというのはない。考えたり段取りする気力もなかった。

もうすぐ4時。出かけるなら出ないと。

…で、ない気力を集めて考えて、外出先に選んだのが、バスに乗って行ける、おいしいと評判のパン屋さん。

これだったら、ちょっとした気分転換になる。おカネも使わないし電車よりも気負わなくていい。

…と、バスに揺られて初めての街へ。

けど、そのパン屋さんの住所を訪ねるも、見当らず。ビルはがらんどう。中を覗くとコンクリートがむき出しになっていた。

あれっ、まちがえたかな?と住所を確認する。

合っている。外観写真も間違えない。

スマホで「○○(パン屋さんの名前) 閉店」と入れて検索してみたけれど、情報はない。「食べログ」にも「おいしい」のレビューだけで「閉店」の文字はなかった。

キツネにつままれたみたい。でも、わざわざ訪ねた店がなくなっているというのが、今の自分に合っているんだ、と思った。

どこか、行きたかった。そのどこかはここだった。

仕方なくうろうろしていたら、ダイソーがあった。

おー、ダイソー!

ダイソーは旧居の近くにあってよく買物していたが、今は近所になくて、ダイソーがあればなぁ、と思っていたんだ。

うれしくなって、食器洗い用スポンジやお掃除シート、ホットケーキミックス、黒糖ピーナッツなどなど15点買った。

気づくと外はまっくら。買物袋を抱えてバスに乗った。3時間足らずの旅。

また台風が来るらしい。被害がないといい。

秋のうちに、本1冊持って一日どこかに行きたい。

レッスン210―レッスン190の復習

(レッスン190)私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

レッスン190には心強さを感じる。

私はどこかしら、苦しまなくてはならないと思っているところがある。で、苦しいのはヤダな、とも思っている。

それを「苦痛とは、間違った見方である。」(L190-1-1)「苦痛は自己欺瞞の証しである。」(L190-1-2)と言ってくれるから。

もしかしたら、苦しんでこそ、その分幸せになれる(なっていい)という観念は、私だけではないかもしれない。

世間にも苦労を美化する価値観があり、学校でも苦と楽はセットだと教えられてきた気がする。

でも、

苦痛とは、罪悪の想念が形となって現れたものであり、それがあなたの神聖な心をひどく傷つけている。苦痛とは、自由にならないためにあなたが喜んで支払った代償である。」(L190-8-1,2)

とACIMは言う。

罪なき心は苦しむことはできない

この世は想念を映した結果の世界。

原因の世界で、この世の喜び、幸せを妨げているものを取り除く。

元々が神のしあわせ、喜びの中にあったものを、自らの間違った想念で苦しみを掴んでいるわけだから、

一言でいうと、「自分で自分の邪魔をしない」ということか。

無罪の心が苦しむことはありえない」(テキストV-5-1)のだから、罪悪感さえ手放すことができたら、もっともっと喜びに満ちた世界を創りだせるかもしれない。

わざわざ、“苦しさ”“痛み”の重りをつけたくはない、と思う。

その一方、そういうことを考えている私って、人から見たら、すごくわがままな甘えた人間だよなぁ、と思う(これって罪悪感かな?)。とっても人に言えないーとも、思っている(こっちは恐怖感か…)。

ACIMレッスン209-レッスン189の復習

2018-09-24

えー、もう年賀状!?

暑さ寒さも彼岸までというけれど、あの猛暑の日々が遠くなり、朝は肌寒く感じることも。

お盆に帰省した時、母から来年の年賀状を作ってほしいと言われた。

「このくそ暑いのに?もー年賀状!?」とのけぞった。

何でも去年私が母用に作ったのが派手派手しくて好きじゃなかったらしい。ぎりぎりになってからでは落ち着かないと言う。

スル―していたけど数日前また電話で年賀状のことを話していたので、昔ながらの絵柄のをデザイン案を2パターン作り官製はがきに印刷して出してきた(ほんとはイノシシのイラストがいいんだろうけど、母のいう昔ながらのが見つけられなかった)。

郵便屋さんは「謹賀新年」の文字を見て、何事かと思ったかな?いちいちそんな反応しないか。

母は昔からいわゆる仕事ができるタイプで、何でも前倒しで片づける。大事なことでも先延ばしして現実逃避しがちな私とは対極だ。

平成31年ー平成最後の年賀状。

平成の次の元号の時代には、年賀状なんてものが消えているかもしれない。わざわざ紙で挨拶ってー、と。

母にはそんなに生き急がないで、と言いたい。

レッスン209―レッスン189の復習

(レッスン189)私は今、自分の中に神の愛を感じる。

私たちには、幻想を通り越した心の内に、神の愛を宿している。

しかし、それは大概この世の暮らしでは忘れられている。

神の愛は、この世を愛で照らす光である。

この光を通して見れば、世界は愛で溢れたものとなるが、この光が感じられなければ、この世は攻撃や憎悪に満ちたものに見える。

あなたは何を見たいだろう。その選択はあなたに与えられている。だから、「人は自らの内に感じているものを見ることになる」という知覚の法則を学び、自分の心にそれを忘れさせてはならない。」(L189-5-1,2,3)

そして、レッスン189では、その内なる愛に到達しようと努める。愛と愛がもたらす視覚を感じようとする。

その方法は、「あなたの心が、真実だとか偽りだとか、よいとか悪いとか思っているすべてのもの、価値があると判断する想念、あるいは恥じているすべての概念を取り去り、あなたの心を空にしなさい。」(L189-7-2)

求めなさい。そして、受け取りなさい。しかし神にあれこれと要求してはならない。」(L189-8-5)

わからなくていい、心を空にする、受けとる

私はこの世を幻想と見ることには熱心だったけれど、愛する、愛の目で見る、愛を運ぶ、といった点についてはあまり意識を向けてこなかった。

私には「愛」という抽象名詞が遠い。好きだ、優しい、あったかい、愛おしい、はまだなじみがあるけど。

つまりは、愛がわからない。

でも、「あなたへの道を知っているのは神のほうではないだろうか。あなたが神への道を知っている必要はない。」(L189-8-1,2)という。だから、ただ、心を空にして自分で自分の邪魔をせずに、求めよう。

神に至る道はただ神を神のままに在らせることである。そのようにしてあなたの実相も宣言されるからである。」(L189-8-7,8)

心を空にする、秋。

これが難しいんだな~、つい過去を振りかえったり四の五の分析したくなっている。

ACIMレッスン208-レッスン188の復習

2018-09-21

「なぞの出荷メール」のその後

おととい来た「身に覚えのない、なぞの出荷メール」の「お荷物追跡番号」にはリンクが付いていた。

知らない所からのメールのそういうのは押しちゃいけない、と思ったけれど、実存する配送業者名のようだしどうにも気になって今朝iphonからポチっと押してみた。

実際の荷物の追跡ページに飛んだ。そして、

「Delivered(配達済み)」と。

えっ、配達済み?いつ?

てか、どこに??

配達時間は、September 20,2018 at 3:03pm

お届け先には、NEW YORKという表記と番地が…。

「Tracing History」には、日本の宅配業者と同様、出発地の場所と時間と営業所など途中の経由地の発着も記載してある。

よくわからないけれど、荷物は無事配送されたらしい。

? ? ?

私は手配した記憶がないのだから、誰かが私のメールアドレスで手配して、カリフォルニア州のビスタというところにある会社からニューヨークへ何かを送った、らしい。

(・・?

ぶきみだ。

でも、深追いしないことにしよう。

これからも送られてくるようだったら、その時に考えよう。

レッスン208―レッスン188の復習

(レッスン188)神の平安は今、私の中に輝いている。

…でしょうね。

その神の平安は記憶から遠くて、かすかに細ーいクモの糸みたいなものでつながっているかいないかくらいの、心もとなさだ。

それでも、私が『奇跡講座』に惹かれたのは、それが真実だと感じたからだ。

この世の中は不合理なことや無意味に見えることばかりだったけれど、『神の使者』や『奇跡講座』を知って、それが言うことを受け入れると、スッキリパズルのピースが嵌る。

たぶん、そうなんだろうと思う。腑に落ちる、という感覚。

悟りとは認識にほかならず、変化のことなどではない。」(L188-1-4)

これもそうか、と頷ける。

ただ、その認識がとっても難しいんだよなぁ。

いっくら、この世も自分の体も幻想だって言っても、空気も水もまた幻想で、そういうものがここに自分としている間、やっぱり要るし。

お腹だってすくし、痛いのやだし。

その認識の変化には、うんと真剣な長い訓練がいるのだ。

訓練の間には、エゴがガタつき大騒ぎする。

今は、その両方の間を行ったり来たりしている感じなのかな?

というより、どうひいき目に見ても、圧倒的にエゴがまだ優勢、ほぼエゴに牛耳られている。

それでもACIM的なものから離れるとフェイドアウトしてまったく忘れてしまうから、離れないようにすることをやっている。

昔、羊毛ボウルを作るというワークショップに出たとき、ボウルの芯になる部分をしっかり作るのがコツと聞いた。

それを思い出す。

今世は芯づくりだけで終わっちゃうかもしれないな。

彼は自分の中の真理を認識したからこそ赦すのである。神の平安は、今あなたの中に、そして生きとし生けるものの中に輝く。静けさの中でそれはあらゆるところに認められる。あなたの内なる視覚が眺めるものが、すなわちあなたの宇宙についての知覚だからである。」(L188-5-4,5,6)

いつか、こういう視覚を手に入れて、この世を眺めてみたい。

神の平安は今、私の中に輝いている。

その平安の中で、すべてが私を照らしますように。

私が自分の内なる光により一切を祝福できますように。」(L188-10-6,7)

ACIMレッスン207-レッスン187の復習

2018-09-18

レッスン207―レッスン187の復習

(レッスン187)私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

ここでは、この世での知覚と真の知覚の違いが述べられている。

・この世 ⇒ 持っているものを与えるとなくなる

・真理の世界 ⇒ 与えることは増やすこと

この理屈がなりたつのは、この世にある形あるものは、それを作り出す想念を表現しているから。

なので、

・形あるもの → いずれ、変化する、なくならない

・想念 → なくらならない。与えることで強化される

となる。

実は、与えている相手は自分である。

神の子である私たちは個々それぞれが存在しているかのように見え、そのそれぞれの角度からこの世を見ているが、本当はひとつだから。

もし、犠牲という概念があるようなら、誤っている。それは赦すべきこと。

その奥には、神からの分離という誤解と、それがもたらす恐れがある。

私たちは、自らを祝福する。

だから、その目に映る世界は祝福されたものとなる。

ACIMワークを知ることと実行することの間に乖離あり

自分が価値を置く一切を与え放つことによって、それを守りなさい。」(L187-4-1)

喜んで与えなさい。それにより、あなたはただ得るのみである。想念は残り、与えることによって強化され、さらに強力なものになる。」(L187-5-1)

とあり、これらの文言には、なるほど~と思うけれど、いざ実行を迫られると、その信念はふにゃふにゃなものだと気づく。

数年前元だんなさんに大金を貸していた時、なかなか約束通りには返されず(それができない状況にあったらしい)、「ACIMの教えによれば、これは“手放すべきもの”では?」とも考えたけど、そうは簡単には手放すことはできなかった。

その時は、その背後にある想念もまた、彼への執着だった(このレッスンの例としてはふさわしくないとも思うけど、なんとなく思い出した)。

その執着とは、彼に投影した私自身のエゴへの執着だったか。

特別の愛と、特別の憎悪と、おカネそのものへの執着と、赦すべき事柄のオンパレードだった。

今もそんなに変わってないかな?

赦して穏やかになったというより、対象が遠ざかったから反応しなくて済んでいるだけというのが、正しい気がする。

そして、今もいろんな不安や恐怖感がある。

神への恐怖をこの世に見ているんだと思う。

それでも玉ねぎの皮を剥くように、少しは落とせてきているんだろうか。

ワークブックを読んでいると、とても私にはできそうにないことばかり書かれていて、空恐ろしくなる。。。ことがある。

ACIMレッスン206-レッスン186の復習

2018-09-14

攻撃を感謝で交した大坂なおみさんって、すごいな

テニスの全米オープン女子シングルスで優勝した大坂なおみさんが、帰国された(いつもはどこに住んでおられるんだろ?帰国でいいのかな?)。

 
 
 
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Naomi Osaka 大坂なおみさん(@naomiosakatennis)がシェアした投稿 -

一躍時の人になって大人気だ。

日本人(だけじゃないだろうけど)の心の刺さるのは、やっぱり決勝でセリーナ・ウィリアムズさんに勝った後のコメントだ。

I know that everyone was cheering for her and I’m sorry it had to end like this.....

I just wanna say thank you for watching the match. Thank you.

(みんながセリーナを応援していたことは知ってます。こんな終わり方ですみません。ただ、試合を見てくださって、ありがとうございます。)」

あれだけ大きな会場で大勢の人の不満(攻撃性)が渦巻くなか、そのフックには引っかかることなく、感謝だけを述べられた。

その対応にふいを突かれ、瞬間みな正気を取り戻した気がする。振りかざされた剣は下ろされた。

なかなかできることじゃない、と思う。

およそ邪気がない。

飾り気もなく、これがこの人の質なんだろう。

すごいな。尊敬する。

ワークで始終「赦し、赦し」と唱えながらも、電車で人に押されただけでも一瞬えっ!?と反応してしまう私。見習わなくては。

人は歳を重ねて成長する、っていうけど、そうとは限らないな。

いくら努めても、私はあの精神性には届きそうにない。

トップレベルでの勝負の世界にいながらも、そこから一歩離れれば謙虚でシャイ、無邪気。

それってやっぱりすごいことだなぁと思う。

トップになってもそのまま変わらないでいてほしいな、なんていうのは、まったく余計な杞憂だよね。

レッスン206―レッスン186の復習

ワークのダイアリーを書くつもりが、前段が長くなってしまった。

(レッスン186)世界の救済は私にかかっている。

えらく大げさな言い回しだけど、この理屈は、私には信じられる。

私自身の想念が映しだして見せてくれる世界なのだから、と思えば。

ただそう覚えていられるのは、自分が何かの渦中に入るまで。

渦中に入ったら、それが小さな渦でもたちまち飲まれてわからなくなってしまう。

あなたはあなたの自己像のように弱くはない。」(L186-6-3)

今回改めて、レッスン186を読んで印象に残ったところ。

そうかな?

私は、学習し出した頃よりACIMの理解度は深まっているとは思う反面、仕事もしておらず社会的な立場がなく、逆に(社会的には)自信がなくなり萎縮している。だから、これが気になったのかな。

自信が持てず萎縮している自分というのは、ACIMでは「傲慢さ」となるんだろうか。

聖霊が話すとき、あなたの自己像は自らの土台が崩れるのを感じて戦慄し、自分の知らない脅威に向かって攻撃しようとする。それが消え去るままにしておきなさい。」(L186-7-2,3)

聖霊の考えとエゴの考えはあまりにも違うから、私は今や両方のマーブル状だ(それとも、どちらでもなくまったく間違えたところに入りこんでいるのか…)。

どういう価値判断が正しいのかわからない(判断がエゴのものだとしても、それなくしてはここでやっていけない)。

秋口のせいか、揺ぐ。考えがまとまらないけれど、ともかく目先のマイプロジェクトを進めようと思う。

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