181~200

ACIMレッスン191-私は神ご自身の聖なる子である。

2018-05-25

半年に一度の通院へ

一昨日は、半年に一度の通院の日だった。

4年前手術を勧められた腫瘍の大きさは変化なし。また半年後検査となった。

正直ほっとした。

一方で血液検査が「ある病気の可能性あり」と引っかかり、その結果を郵送で知らせてもらえることになった。

住まいも人生も仕切り直したいと思っている今、病気になるスペースはないはずなんだけどな。

ACIMを学んできて、病は自分の罪悪感や恐怖心の投影で、本来なら必要ないものだと学んだ。

直前のレッスン190にも、

あなたに苦痛を引き起こすのは、あなたの想念だけである。」(L190-5-1)

この世界には、あなたを病気にしたり、悲しませたり、か弱く、脆いものにするだけの力をもつものは存在しない。」(L190-5-5)

とある。

私は、自分に病を課す必要はないんだ、と改めて思う。

転居届提出、引っ越し日決まる

引っ越しプロジェクトのほうでは、6月15日と引っ越し日が決まった。引っ越し業者さんに見積もりに来てもらい、近場のわりには若干高めかなと思ったが、まぁいいかと決めた。

現区役所への転出届と、新区役所への転入届を済ました(登記の関係で、転入届は引っ越し前に出すらしい)。たいしたことはしていないのに要領が悪く時間ばかりかかっている。

レッスン191-私は神ご自身の聖なる子である。

レッスン191は、自らのアイデンティティを高らかに宣言するワークだ。

私は神ご自身の聖なる子である!

これが認められさえすれば、私たちは救われ幸福である。しかし、このアイデンティティを拒否するなら、この世は魑魅魍魎の世界となる。

最近はテレビで、加計学園の獣医学部新設時の総理の関与問題や、レスリングのパワハラ問題、日大アメフト部員の悪質タックル問題などが、話題となっている。

上の人に忠実に従うのが徳とする文化がずっとあり、それがパワハラや忖度を容認してきたようにと思う。どれも形は違うけれど似たような構図に見える。この世で地位があがると、いつしか擬似神エゴを崇めその手下になってしまう危険がある。

ある種社会のダーティな部分を受け入れてこそ社会で「一人前」「大人」とされてきた。私の若い頃も「セクハラも仕事の内」と言われていた時代があった。今から思えば、なんじゃそれ、だが。

私が見ている世界は、やっぱり魑魅魍魎だな。

でも、昔は隠せたことが今は表面化しやすくなっている。私のカルチャー講座の先生は「浄化の時代なのよ」とおっしゃるけど、実際、そうなのかもしれない。

アイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム?

だがこれは、あなたが自分のアイデンティティーを拒否できると想像して遊ぶゲーム以外の何だろうか。」(L191-4-1)

この文がしゃれていると思う。

ACIMを少しずつだけど時間をかけて学んでいくと、一見荒唐無稽なこの教えがほんとうに真実だと感じられてくる。

実際、この世の中はACIMの言うようなしくみで動いているのだ。

あなたにはこの世界を残酷に用いる必要はなく、だから世界の中にこの残酷な必要性を知覚する必要もない。」(L191-6-3)とは、心強い。

あなたは虚しい希望と荒廃した夢を抱き、涙を流し、痛みに苦しみ、ただ死ぬだけのために生まれ、自分をひ弱で壊れやすいものと知覚しているが、よく聞きなさい。あなたには地においても天においてもすべての力が与えられている。」(L191-9-1)

この「よく聞きなさい」がけっこう好き。直接導いてもらえている気がする。

ついていこうと思う。

感じたことは、

心を曇らすな」ということ。

…→「(欲で)心を曇らすな」

…→「(小欲で)心を曇らすな」

うーむ。

私は神ご自身の聖なる子である。

ACIMレッスン190-私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

2018-05-14

「母の日」に帰省した

北陸新幹線に乗って、きのう、実家に帰省した。マンション共有者である母の書類を市役所で取ったり、必要な書類にサインをしてもらったりといった手続きのためだ。

母は「母の日」に娘がやってきたことに喜んでいた。

手土産はカーネーションの替わりの蘭。

母曰く、葉っぱが左右対称なのが趣に欠ける、と。

実家の居間では、亡き父が微笑んでいた。

親というのは、つくづくありがたいものだ。

遅ればせながら、そう思える人生になって、よかった…。

親を憎んだまんまでは辛いから。

負のリアリティをそのまんま引きずってその見方で世の中を見続けても、いいことはない。

ただ自分のなかの自己像を鏡に映しているのだとは、なかなか気づかない。

実際このゲンジツ下では親の影響力と存在感は絶大で、今回の帰省でも朝から夜までずーっと話かけてくる母に、ACIMの教えはぶっとんでしまう。

とても、これが幻想だとは思えない。

深夜になってACIMをようやく思い出す。

家族と暮らしながら、ACIMのワークを続けるのは、本当にむずかしそうだ。私などはひとり暮らしだからやってたんだと思う。

レッスン190-私は苦痛のかわりに神の喜びを選択する。

レッスン190は、好きなワークだ。

わかりやすいし、私には沁みる。

私はずっと無意識のうちに「(私なんぞは)幸せになってはいけない」と思っていたようだ。苦痛こそが自分にふさわしいものと思い込み、そのうえで、来たるべき苦痛にひどく怯えていた。

それを、レッスン190は「苦痛とは、間違った見方である。」(W190-1-1)と、一蹴してくれている。

その言葉にほどけていく私がいる。私は物心ついたころから、苦痛に対して防衛して身を固くしてきたのだった。

苦痛とは、神の子が自分が何であるかについて誤解していることを証言するものにほかならない。」(W190-2-3)

苦痛が実在するという考えには、「このような愚かしさに平安あれ!」(W190-4-1)

そうなのか。

そうなんだ。

そうなんだ!

よかった…

苦痛は間違った見方だと、このワークは言葉を変えて、何度も繰り返してくれる。

もし苦痛を感じているとしたら、それを引き起こしているのは、私の考えだけだ。

この世界には、あなたを病気にしたり、悲しませたり、か弱く、脆いものにするだけの力をもつものは存在しない。それどころか、自分の本性をただ認識するだけで自分が見ている一切を支配できる力をもっているのは、あなた自身である。」(W190-5-5,6)

これは私には救いの言葉だ。

私はこれを信じる。

そして、喜んで、苦痛のかわりに、神の喜びを選択する。

私が今、見ているこのゲンジツは結果の世界なんだ。

そこには、幻想を別の幻想に変える以外の力はない。

「神あり」とこの世で体現できる人になりたい。

最近感じるのは、恐怖心より罪悪感のほうが「やっかい」、ということだ。

恐怖心はわかりやすく手放そうと意識化しやすいけれど、罪悪感は気づきにくいし、それを手放すことにまた罪悪感を感じてしまうから。

人によってちがうのかな。

実家では、考えがまとまらずブログを書くのがむずかしい。

母のパソコンに、慣れないせいもあるかな。

母は会うたびに腰がまがっている。切ない。愛おしい。一方で、心のなかで「和解」し感謝できていること、いまここに居てくれること、それがなによりありがたい。

これはACIMの考えに依った感情かどうかわからない。

ACIMレッスン189-私は今、自分の中に神の愛を感じる。

2018-05-11

新しい町が気に入っている

おかげさまで、ようやく意識が「マンション売却」から「引っ越し」に移ってきて、引っ越しが実感できるようになってきた。

住まいを駅で選んだわけではないけれど、内見やらなんやらで行くにつれ、町に親しみが増してきている。商店街には八百屋さんや靴屋さんなど昭和の面影が残る店があって、ほっこりする。

今は「この町が好きだ」と思う。

この年になって、また心機一転の気分。あるいは、長い滞在型の旅をするかのようだ。

この世が幻想であっても、環境の影響って大きいと思う。

この世がすべて結果なら、私という原因がどこか変化したから、私が見る環境が変わったということだろうか。

体は、ぎっくり腰はよくなったけど、昨日からまだ膀胱炎っぽい。

こちらの幻想はこじらせる前にさっさと手放したいが。

レッスン189-私は今、自分の中に神の愛を感じる。

レッスン189は、「あなたの中には、世界が知覚できない光がある。この光を、あなたはこの世界の目で見ることはない。あなたは世界によって目が見えなくなっているからである。」(L189-1-1)から始まる。

この世界が知覚できない、内なる光とは、内なる神の愛の反映である。

この神の愛に意識を集中してこれを認めることが、この今回のワークのお題だ。

私たちが内なる神の愛を認めて感じるなら、その反映としての世界というスクリーンには、無垢性と祝福を見ることになる。

今、私の目に映る世界には恐れと怒りが渦巻いている。

これは、私の見方がエゴを通したもので間違っていると示す証拠だということだ。

見方の二者択一

見方は二つに一つ。神の愛を認めるか、否か。神の愛か、罪&恐怖か。どちかかが幻想でどちらかが実在する。

そのどちらもが在るということはありえない。

私はどちらを選ぶのか。

それは「『人は自らの内に感じているものを見ることになる』という知覚の法則(L189-5-2)」に従っている。

だから、

今日、私たちは幻想を通り越して、幻想を通り越し、自らの内にある真実なるものに到達しようと努める。」(L189-6-1)

そして、

愛と愛からのギフトである光を感じる視覚を感じることを試みる。

そのためには、既存のすべての概念を取り去って、心を空にする。

ワークで取り去るべき概念の中には、「この世界を忘れ、このコースを忘れ、両手をまったく空にして、あなたの神のもとに来なさい。」(L189-7-5)とACIMでさえ忘れ、まっさらな心でいることが強調されている。

そして、ただ神に来てもらうことだけを願う。

神に至る道はただ神を神のままに在らせることである。」(L189-8-7)

「問題」「困りごと」はエゴのエネルギー源だから、今は忘れる

おそらくエゴが幻想であるエゴを保つには、エネルギーを与え続けることが必要だ。それが、私たちがこの世で目にする「問題」だ。

問題はこのレベルでは確かに解決すべきことだけど、この世界は結果にすぎないとしたら、その原因のほうを解決することが合理的だ。

その原因は、私(たち)の心の中の神の不在だ。神と私たちは切っても切り離せない。ただ神を認識すること。

そのために心の中のあれやこれや、とくに自分がもっとも問題だと感じていることを脇に置くこと。

神にお願いごとをしたり問題解決を願うのは、神を自分(エゴ)の望みで変形させようという試みだ。

そうではなく、それらを一時心から出して、ただ心を空にすること。

それが神を感じられるスペースを作ることであり、神に近づくことだ。

呼吸をするくらいに無意識にできたら…

ACIMブログを書いている時は、もちろん覚えているけれど、こういうことは渦中に入るとすぐわからなくなってしまう。

だから、くりかえしが必要なんだな、と思う。

前よりも、神さまが怖くなくなった。神の愛を素直に感じられるようになったと思う。

歯磨きくらい、呼吸をすることくらい、神の愛を感じることが習慣化されたら、この世界もまた違って見えるだろうなと思う。

ACIMレッスン188-神の平安は今、私の中に輝いている。

2018-05-02

引っ越しはまさに断捨離のため?

家にある荷物を見ながら、「やっぱり断捨離しなきゃダメだな~」と思っている。

新居は押入れ一つ分の収納が減るし、本棚の置き場所も減るから、使わないものは捨てなきゃ。

「断捨離」って友だちがよく使うけど、「ものを捨てる」ってこと?ようわからん、と思っていたけど、

ネットでちらと見たら

  • 」=入ってくる不要なモノを断つ
  • 」=不要なモノを捨てる
  • 」=モノへの執着から離れる

という意味があるとか。

「例えば、モノが増えてきたから捨てればいい、ではなくて、自分にとって『本当に必要なものを見つめ直そうとするのが断捨離です。」とある。

それならば…!

私が、引っ越しすることになったのは、実際のところ断捨離したいからかも。

モノのだけじゃなくて、自分の在り方の。

自分という存在の“ぜい肉”を落とし、幹をしっかりと太く堅くしたい。今回初めて自宅に増えたものに気づいたように、引っ越しは手っ取り早くいろんなものを見直すきっかけになる。

メルカリ初出品

この前は初めて「メルカリ」に挑戦した。購入後返品しそびれていたウォーキングシューズを売った。

写真を撮ってちょこっと説明書いて、出品ボタンを押すだけだったけど、初めてのことってやはり気合いが要った。

むかしむかし若かりし頃、「おばさん」って、新しいものを使いこなせず、なんてとろくさいのだろう、と思っていたけど、自分が成長して、まさに、その生物になろうとは…(^_^;)

「メルカリ」では質問を受けただけじゃなく値引き交渉を受けたことも新鮮だった。まだわかっていない暗黙のルールもありそうだ。でも、初めて「ネットを通して売る」体験は、ほんのちょっぴり自信にもなった。

占いの本とかも、ブックオフに持ってくんじゃなくてメルカリに出品してみようかな。

レッスン188-神の平安は今、私の中に輝いている。

レッスン188でも、言葉を変えながら、神と自分がひとつであることを説いている。

悟りとは認識にほかならず、変化のことなどではない。」(L188-1-4)というのが、なんかいい。

認識できるようになる道程、それがACIM(A COURSE IN MIRACLES)だ。

今ここに光はある。

自らの内にある。

見えるものはすべて、内なる視覚で見られたものの影である。知覚は内なる視覚から始まり、内なる視覚で終わる。それ以外の知覚の源はない。」(L188-2-6,7)

だから、

神の平安は、今あなたの中で輝き、あなたのこころから世界中へと延長される。」(L188-3-1)

この光と平安を自らに認めるには、静かに座り、目を閉じて内に向かうこと。

あなたの内にある光で充分である。L188-6-2)

このフレーズも好きだ。

その光だけで、あなたに視覚の贈り物を与える力がある。」(L188-6-3)

忘れるのは仕方ない、なるたけすぐ思い出せるようになろう

こんなに、手を変え品を変え、ACIMは勘ちがいをとりなしてくれているというのに、ちょっとでも、ゲンジツに自分にとって不具合なことが起こると、すぐ心乱れてしまう。そして、わけがわからなくなってしまう。

私は新居を購入した不動産屋さんからあるはずの連絡がなく、不安に思いいらだちを感じていた。

そんなささいなことでさえ、心がさざめいてしまうのだ。

怒る必要があることなんて、この世にはない(正しい目で見れば)。

怒りの裏には恐怖、不安、見捨てられ感がある。

怒りは、それを赦せるために、そのことのために起っているんだ。

連絡がないことは、私自身のだらしないところを見せていて、それを赦すために現れているように感じた。

すべての不愉快な、あるいは理不尽なことには、赦しの機会だということを、なるたけ覚えていたい。

私たちは、世界が自分に為したと思っていたことについて全世界を放免し、一切を赦す。私たちこそ、自分が望む通りに世界を作り出す当事者だからである。私たちは今、世界が無垢であり、罪がなく、救済に向かって開かれたものとなることを選択する。」(L188-10-2,3,4)

意識に残ったところを書きだそうと思うと、どんどん増えて全部になってしまいそう。

ACIMの教え、日常生活のなかで、すぐ忘れてしまうのは仕方ないとして、なるたけすぐに思い出せるようになりたい。

ACIMレッスン187-私は世界を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

2018-04-30

後ろめたさが緩むGW

GW真っただ中。

私は昨日もおとといも、ただぼーっと過ごした。なんだかとても眠くて、眠くて。でろりんとしている。考えもまとまらない。

金曜日の売却の契約で、昨年末から始まっていたマンション売却・住み替え・引っ越しプロジェクトがひとくぎりで、知らず知らずの間に臨戦態勢にあった身体から力が抜けたようだった。

自分がそんな“臨戦”だったことに、軽くショックを受けた。私は、だれから身を守りだれと戦っているんだろう。

GWは好きだ。

GWこそは籠りたい。世間が休みということで、罪悪感なく自分のやりたいことに向かえるから。

いつも世の中のみんなが頑張っていて自分が頑張っていないことに、どことなく「後ろめたさ」を感じていて、常に煽られ感がある。GWはそれが緩む。

新しい住処の後は、新しいはたらき方、収入源をかたちにしなくては。

レッスン187-私は世間を祝福する。それは、私が自分を祝福しているからである。

レッスン187は、ちょうど私にとっての女神=買主さんが現れた時のワークだった。

            *

自分が持っているものでなければ、与えることはできない。

この世の見方では、与えてしまったら与えた方は失うが、ACIMはそうではない、という。ものはそれを作り出す想念を表現したもので、想念は与えることによって、強化され増大する。

強化され増大された想念は、さらに与えた時より好ましい形で返ってくる。

だから、「自分が価値を置く一切を与え放つことによって、それらを守りなさい。そうすれば、あなたは自分がそれらを決して失わないと確信する。」(L187-4-1)

失うように見えるものは、いずれは必ず自分に戻ってくるものに比べて、自分にとってずっと価値の低いものばかりである。」(L187-5-8)

与えた者は、犠牲を払っているかのようだが、「犠牲」という概念はまさに幻想の産物であり、「狂った概念」だという。

苦痛や損失、病気や悲嘆、貧困、飢えや死などで現れる一切の犠牲もありえない。

自分が犠牲を払うことが可能だなどと決して信じてはならない。」(L187-8-1)

もし、そうした想念が生じたなら、その想念の存在自体が、誤りが生じていて訂正の必要があることを証明している。」(L187-8-3)

犠牲ではなく、あるのは祝福だ。

犠牲は神への恐れと罪悪感から生じているが、神との分離が幻想なのだから、犠牲など存在しえない。

ただ、祝福がある。

今、私たちは祝福されており、だから今、私たちは、世界を祝福する。」(L187-11-1)

神への恐れと罪悪感は、とてつもなく大きな幻想だ。大きすぎて直視できず認めることも拒否している。

私たちは、たえずスケープゴートとして非難し祭り上げる人を求めている。悪いのは自分ではなく、「あの人」だと。最近はマスコミなんかでも、その傾向がさらに強く出ている気がする。

自分を責めたくなる分だけ、目の前の人に寛容になれ

私はこのワークをしている時、生前の父に対する申し訳なさが出てきた。

それは「こうすればよかったのに」という後悔になって、さらに自己否定へとつながっていった。

でも、それから、「申し訳なさは幻影。申し訳ないと思ったときは、それを手放して感謝を倍にしなさい。」と言われた気がした。

ワークをしていて、最近のぎっくり腰や膀胱炎も、自分の中の罪悪感に気づく機会なのだと感じた。

それから、こうも感じた。

人間はおしなべて、苦労に耐えられないんじゃなくて、幸せに耐えられないんだ。

勘ちがいの罪悪感に苛まれ続けるから。

自分を責めたくなる分だけ、

目の前の人に寛容になれ。

見ているのは自分自身だ。

ACIMレッスン186-世界の救済は私にかかっている。

2018-04-27

「喜びとは静かなものである」

先週、欲しかったもの(気に入った新居)が思いがけず手に入ったという喜びを感じていた。そして、とてもコーフンしていた。

エネルギーが乏しい方だから、そのコーフンで感情エネルギーを使い疲れ果ててしまい、土曜に懸案だった自宅マンションの売却まで決まった時には、うれしいんだけど反応する余力が残っていなかった。

レッスン186は、そういう最中の一週間に行った。

ワークをしている時、この新居は、自分に与えられた役割(聖霊には母のいる故郷に帰れと言われた気がしたことがある)に素直になりきれず、駄々をこねる子に対して聖霊が与えてくれた「おもちゃ」なのかもしれないと感じた。

手を引かれ、「ほら、家に帰るぞ」と言われているときに、縁日のおもちゃや雰囲気に魅せられ「まだ帰りたくない」という幼児に、「これ買ってやるから」と大人がなだめておもちゃを買い与えるように…。

そんなふうに感じつつも、一方ではやっぱりとってもうれしかった。

ワークでは、「喜びとは静かなものである」という声(メッセージ)も感じた。私が先週感じていたコーフンは、真の豊かさを反映した喜びとは異質なものなんだろう。

レッスン186-世界の救済は私にかかっている。

主題概念の「世界の救済は私にかかっている。」とは、いかにも大げさである。ワークブックにも「今日の主題概念は、その意味がわからないうちはひどく深刻なものに思えるかもしれない。」(L186-3-1)とある。

だけど、世界は、分離した(ことになっている)神の子が、それぞれの位置から映画を見ているにすぎないこと、自分の世界はただバーチャルリアリティ映画そのものであること。

その真実に目覚めることで見える「世界」が変わるのなら、この私が見ている世界の救済は私にかかっている、というのは、理にかなっている。

この考えを受け入れることは、謙虚さである。

この考えを否定することは、傲慢である。

もし、神の声が、救済にあなたの役割が必要であり、そしてその全体があなたにかかっていると保証するのであれば、その通りであることに確信をもとう。」(L186-5-4)

聖霊はこの気づきをサポートしてくれている。しかしー

聖霊が話すとき、あなたの自己像は自らの土台が崩れるのを感じて戦慄し、自分の知らない脅威に向かって攻撃しようとする。」(L186-7-2)

最近の私は(いや、ずっと前からも)こんな↑感じだ。

聖霊の声を聞いてしまったらー、ぼんやりとではなくクリアに感じてしまったらー「困る!」(それによって、私が仕切りたいと思っている人生の路線を変えなければならないから)と、ずっと思っている。

そして、ワークブックを学び、聖霊に耳を傾ける時間を取りながらも、同時に耳をふさいだり開けたりしている。

そして、垣間にもれ聴こえる声をかいつまんで聴いて、従ったふりをする。

あ゛…、自分でそこまで気づいているなら、もうそろそろ「ふり」はできなくなるな。

この世界を見せているのは自分だ、とワークを続けるなかで、私はより納得できるようになってきた。

神の声が指示するとおりに行いなさい。もしその声があなたに不可能と思えることを求めるなら、誰が求めているのか、誰がそれを拒否しようとしているのかを思い出しなさい。」(L186-12-1)

神の声(聖霊の声)に素直に。

これが私のお題だ。

耳をふさいだり、開けたりしながら、聴こえないように「あ~」と自らの声を出している。

その声を静めて、ふさいだ手を下ろすこと。

そして、目前の赦しを実践していくこと(これがむずかしい)。

この世界の救済はすことのできるあなたにかかっている。それがここにおけるあなたの 機能はたらきである」(L186-14-5)

∠(`・ω・´)

ACIMレッスン185-私は神の平安を望む。

2018-04-25

ぎっくり腰と膀胱炎

外は大雨。

私は、まだぎっくり腰と膀胱炎で家の中を腰を曲げてそろそろと歩き、トイレばかり行っている。

市販の薬飲んでいるけど、お医者さん行った方がいいのかな?

でも、行けば抗生物質を出されるだろう。できれば抗生物質は飲みたくない。もう少し様子見するか。

明後日の念願の!売買契約までに、治すことができるかな。契約中も不動産屋さんで、そろそろと中座してトイレを借りることになるのかな。

体調の悪い時、「これは幻想だ!」と思って手放すようにする。だけど、ただそう思っただけですぐに回復させられるくらい、まだ視点の転換に熟練していない。

ゲンジツの不愉快さを何とかしたいと、つい逆に幻想にフォーカスしてしまい、それを強化してしまう。いわゆる負のスパイラルに陥りがちだ。

ここに、不具合として現れているものは、内なる恐怖と罪悪感の象徴にすぎないのだから、これもまたanother chance for forgiveness(新たな赦しの機会)にすぎない。

それでも、この幻想って、今の私には、すごくよくできていて、ものすごくリアルだ。

レッスン185-私は神の平安を望む。

レッスン185は、「私は神の平安を望む」と、シンプルなACIMの主題のなかでもことさらシンプルだ。

この言葉をただ口にしたところで何の意味もない。しかし、それを本気で言うことはすべてに値する。」(L185-1-1)

神の平安を望むと本気で言うことは、一切の夢を放棄することである。」(L185-5-1)

ここでは、「本気で(言う)」というところがミソだ。

今日は、自分の口にする言葉を自分が本気で言っていると認識する練習をしよう。」(L185-7-1)これがこのワークのお題だ。

平安を望まない人はいない。でも、本気で望むときには、この幻想の世がもたらしてくれるように見える手段に執着してはならない。たとえば、社会的地位やおカネ、贅沢品、見た目の良さ、肉体的強さや若さ、人気とか…?

これはとても難しいように思える。この世に生きていてそれらをまったく願わない人はいないと思う。願うのはかまわないけど、執着してそれをリアルにしてしまってはならない、真実を見る目を曇らす、ということなんだろう。

でもやはり…今の私には難しく感じる。幻想と知ってるつもりだけど、今の自分の知覚にとってはリアルだし、その知覚を楽しむのがなじんだ“生きている感”でもあるから。それら全部を手放したら、重力がなくて宇宙空間にふわふわ浮いているかのようになりそうだ。

神の平安を真摯に求めるなら、その手段は理解できる形で与えられる

レッスン185では以下のパラグラフがとくに心に残る。

平安こそが自分の望むすべてである、と本気で言う心は、必ずほかの心とつながることになる。ほかの心とつながることが平安を得る方法だからである。

平安を求める願望が真のものであるとき、平安を見出す手段は、それを誠実に探し求めるそれぞれの心が理解できる形で与えられる。彼が真摯に求めているなら、レッスンはどのような形をとるにしても、彼が見間違うことのない形で計画されている。」(L185-6-1,2,3)

神の平安に対して、真摯であれ!

そうすれば、旅の途中で自分のコースの一里塚を見逃しはしない。

この部分に安堵を感じる。

ただ、幻想のキラキラに心ときめかすところも未だ大ありな私にとっては、旅の至るところに“踏み絵”もまた置かれているだろう。

ACIMは幻想の快感の手段のすべてに対して、「一つの問いが問われなければならない」としている。

『これが、天国や神の平安のかわりに、私が望んでいるものだろうか』と。」(L185-8-8)

いや~、ACIMワークブックはがんがん細かいところまで詰めてくる。「ふり」は許されない。

は~、長い道のりだ。

どのくらい長いのか見当もつかない。

とりあえず、私は次の一里塚をめざろう。のろのろと。

ACIMレッスン184-神の名は、私が受け継いだ賜物である。

2018-04-20

や~っと、ダンベル、できた

レッスン183のワークについて書いた前回、ワーク中「姿勢を良くするために体幹を鍛えよ、そのためにダンベル習慣を再開せよ」というメッセージを受け取った気がしたと書いた。

「姿勢を良く、体幹をしっかり」というのは、ここ最近のワーク中毎回感じることだ。

これが、いわゆる聖霊からのメッセージかどうかは自信はないが、これだけ具体的かつ健康に良さげなこと、やってみればいいじゃないか。ここで書いてしまった以上、ダンベルを再開しなくてはブログ更新できない気がしていた。

そして、やっと、やっと…、今日できた。

あまりにもささやかなことだけど。やれやれ。

ダンベルをすると血流が良くなるのか、身体がすっきりする。

できたら、一回だけじゃなくて前のように習慣にできたらいいけど。

私が「きれいだな」と思う人は、年齢にかかわらず姿勢がいい。しゃんと背すじが伸びた、存在そのものが美しい人に憧れる。

レッスン184-神の名は、私が受け継いだ賜物である。

レッスン184は、名づけることについて書かれている(と思う)。

「あるもの」に名前を付けることで、そのものの性質が知覚され、自分との関係が定められる。そして、自分から分離したある存在として認識される。

名づけることは、意味をもたせることであり、存在理由をつくることでもある。

私たちは、このゲンジツの世で限りない名づけを行って、幻想に厚みを持たせてきた。

そして、その共通認識を身につけることを学びといい、それによってコミュニケーションを成立させてきた。

でも、ACIMを学べば、それはいかに複雑で厚みがあるように見えても、やはり幻想に拠っているのだとわかってくる。

ただ、身体を持って、この幻想の世の名づけにしたがったゲームに参加している者は、名づけからまったくフリーになることはできない。

ACIMがいかに素晴らしいと感じても、ACIMの理論だけではこの世でコミュニケーションができない。

そこに、私自身の「??」もあったように思う。

ACIMの価値観を深めつつ、この世でどう生きたらいいのか。ACIMを勉強しているつもりで、ただの「浦島太郎子」になっている私。世間話の相づちさえヘタになってる(・・;)

ACIMとゲンジツ、どう折り合いをつけたらいいのかな。

この世のルールにしたがいつつも、その下にはACIMの層をしっかり意識し、その価値観からぶれないようにすべきなのかな。は~、いつもぶれぶれだけど。

こうした思いに揺れている私に、レッスン184はひとつの指針を与えてくれる。

ゲンジツを生きつつACIMを歩むヒント

あなたはもうしばらくの間、この世界の象徴を使う必要がある。しかし、それらに騙されてはいけない。」(L184-9-2)

それらはこの世界が理解できるやり方であなたが意思疎通をするための単なる手段となるが、あなた自身がそれが真の親交が見出せる場としての一体性とは違うということを認識している。」(L184-9-5)

闇の世界を描写する卑小な名称や象徴はいくらでも使ってかまわない。しかしそれらをあなたの実相として受け入れてはならない。」(L184-11-1)

世界がそれらに与えている名前を単なる便宜のためにのみ使いなさい。ただし、それらがあなたとともに神の名を共有しているということを忘れずにいなさい。」(L184-11-4)

このあたりに、ゲンジツを生きつつACIMを歩む方法のヒントがあるように感じた。

「神に名はない。しかし、神の名はあらゆるものが一つであるという最後のレッスンとなり、このレッスンですべての学びが終わる。」(L184-12-1)

それをこの世で忘れないこと。そのために、この世のリズムから抜け出て、心を静めること。

そういうことかな。

よく言われることだけど、「忙」という字は「心を亡くす」と書く。忙しくするのは、エゴが正気を失わせる得意技だ。

やっぱり、ちょいちょい休んで心の声(聖霊の声)に耳を傾けるのが大事ということかな。

明日も、ダンベル、できるかな。

ACIMレッスン183-私は神の名と自分自身の名に呼びかける。

2018-04-17

怒涛の展開、現在渦中

4月も気づけば後半だ。やるべきこと、あまり進んでない(・・;)

先週金曜日から昨日にかけて、あくまで自分にとって、だけど、怒涛の展開があって、今も渦中にいる。

それは落ち着いてから…として、ワーク183だ。

これは、3月の終わりにやったワークで、その頃はまだ桜が咲いていた。ワーク…すでにどんなだったか忘れている。

日本は四季があって常に季節が移ろいでいく。これから春から初夏へと向かう。毎日そうは変わってない気がするけど、この世のゲンジツは自分を取り巻く環境も自分自身も含めて、常に常に変化し流れていく。

レッスン183-私は神の名と私自身の名に呼びかける。

名というものは、おしなべて認識のフック=手がかりだ。

神の名を心に浮かべることで、神を心にいだくことができる。

神の名に呼びかけるということは、あなた自身の名によびかけることである。」(L183-1-2)

それは、ワークブックにあるとおり、真の自己への呼びかけとなり、自分を思い出す。

自分=神の子、神の延長だということ

だから、レッスン183は、「神の名を繰り返しなさい」とくりかえし呼び掛ける。

「そうすれば、全世界がそれに応えて幻想を放棄する。」(L183-3-1)

「そうすれば、卑小な名前は意味を失う。」(L183-4-1)

「神の名を繰り返せば、地上の小さく名もなきものすべてが、正しい視座におさまる。」(L183-5-2)

と言い、

「今日は、神の名をゆっくりと何度も何度も繰り返すことだけを練習する。神の名以外の名は、一切忘れてしまいなさい。」(L183-6-1)と指示する。

この練習を行うことで、実相(神)だけが意識され、エゴのつくっている砂の城が崩れていく。

聖霊さんの具体的メッセージ!?

私はレッスン183の中の「黙して座り、神の名を、あなたの心を完全に包む包括的な想念になるようにする。」(L183-8-3)の次がとくに好きだ。

これ以外の想念はすべて静める。そして、ほかのすべての想念にはこれをもって応える。」(L183-8-4,5)

なんか美しく感じるから。

そうなれたらいいけど。ゲンジツの私は俗物で、まだまだそんなふうにはなれそうにない。

正しい方向に導いてくれる聖霊の声が聴けているかどうかもわからない。エゴの声と聖霊の声の聴き分けすらできているのかどうか。

ワーク中思いついたり感じたりすることが「それ」かな、と思ったりしているだけ。無意識のうちに聴けていて行動できているのかも、と思ったりもしている。

ここ最近ワーク中頻繁に思い浮かぶのは、

姿勢を良くすること

 ↖そのために体幹を鍛えること(腹筋背筋不足か、長い時間座ることもきつい)

  ↖そのためにダンベルを再開(1回20分のダンベルDVD、腹筋も含まれている)

これが聖霊さんのメッセージだとしたら、えらい具体的やな。しかも幻想だという身体のことだし。

おそらく、聖霊さんじゃないにしても、まぎれもなく私が気になっていることなんだろう。

だけど、半月前くらいから聴いている(思い浮かぶ)くせに、まだできてない。たかだか20分くらいのことでも、一回止めてしまった習慣を再開するのって、パワーがいるなぁ。

まず一回。

習慣として再開できるかどうかは、その後だ。

では、今日から。。。?

ACIMレッスン182-私は一瞬の間静まり、家に帰る。

2018-04-02

人間に許しがたきを許す、そこから先は神のためだと知らぬか

家の片づけに勢いづき、週末は家電を3つ近所のリサイクルショップに持ち込んだ。石油ファンヒーター、空気清浄機、加湿器…。値段が付いたのは加湿器だけで500円。

今やゴミの引き取りにもおカネが要る時代。十分だ。今朝は解体した本棚を粗大ゴミとして引き取ってもらった(1,100円かかった)。

物の処分でも手こずるのが、紙や書類だ。昔やっていた仕事やプロジェクト、勉強していたものの書類を見ると、時おり感情が揺れてしまう。今より若かった時代への懐かしさなのか、あるいは後悔も含まれているのか。揺れているのはもちろんエゴだ。

そうした昔の書類も、今の機会になるたけ捨てよう。片づけコンサルタントのこんまりさんも、テレビで「書類は全捨て」って言っていたではないか。

そう思って片づけ作業をしていたなか、ふと目に止まった詩があった。産業カウンセラーの勉強をしていた頃のレジュメにあった詩だ。

許しうるものを許す

 それだけならどこに神の力が要るか

 人間に許しがたきを許す

 そこから先は神のためだと知らぬか

 『八木重吉全詩集2 貧しき信徒・詩稿Ⅲ』

この詩…。「許す」は、ACIMのいう「赦す」ではなく、一般的に使われる「許す」の意味だと思う。だけど、ACIMの言わんとすることに近いニュアンスも感じる。

高校生の頃、八木重吉さんが書かれたある詩がすごく心に響いて、覚えていた。だけど、いつの間にか忘れてしまい、今は思い出せない。どんな詩だったんだろう。

ふと、八木重吉詩集というのを読んでみたい、と思った。

レッスン182-私は一瞬の間静まり、家に帰る

レッスン182は「あなたが住んでいるように見えるこの世界は、あなたの家ではない。心のどこかで、あなたはこのことが真実だと知っている」(L182-1-1,2)から始まる。

それをみんな心の奥では知っているけれど、思い出さないようにしている。仕事や遊びに没頭したり、感情を否認したり、その考えを否定したりして。

そして、永遠の安堵感を、この世でいろいろな手段に求めるが、結果的には徒労に終わる。

だれの心の中にも「父の家を探す幼子がいて、その子は自分がここでは異邦人だと知っている。」(L182-4-3)

その聖なる幼子こそが、私たちを導く内なる神の子だ。

「彼は家に帰ることを深く絶え間なく欲しており、彼の声は少し休ませてほしいとあなたに訴えている。」(L182-5-3)

「この幼子とは、防衛しないことによる強さそのものである。彼はあなたを信頼している。」(L182-7-1,2)

この世での時間のゆとりを設け、この内なる幼子の声を聴くことがこのレッスンのテーマである。

そして、この幼子の持つ防衛しないでいる無垢な強さこそが、自分の内にある強さであるという、その認識。

死の恐怖を忘れるため、ハードワークをする!?

少し前『東大から刑務所へ』という本を読んだ。堀江貴文と元王子製紙会長の井川意高(カジノで会社のおカネ106億8000万円を使い込み逮捕された)の対談集を読んだ。

(堀江:僕は小さいころから「死の恐怖」に苦しんできたんですよ。でも、シャバにいるときはとてつもなく忙しく動いているから「死の恐怖」は忘れている。長野刑務所の独房で寝ているのときには時間がありすぎて「人は必ず死ぬんだよな」という恐怖に襲われました。P208)とホリエモン。

たしか前の本でも、死の恐怖を紛らせるために忙しく働いていたといったようなことを言っていた。

案外、正直な人なのかもしれない。

私も幼い頃から、死が怖い。

今は前より怖くなくなったとは言え、迫っていると感じたら、どんなにか恐怖を感じるだろう。

もちろん、それは幻想だと、頭ではわかっている。

でも、まだまだエゴの見方から聖霊の見方に矯正できていない。

それよか、私は、ACIMをまったく知らない平均的な人より、防衛的だ、たぶん。

「姿勢を良くしろ」

最近ワークをしていて感じるのは、「感謝しなさい」ということと共に、「姿勢を良くしろ」ということ。

そのためには、体幹を鍛えること、手始めには前やっていたダンベルを再開…と、具体的なイメージも浮かんできた。

これは…、聖霊さんのメッセージ?

やっぱり私が勝手に思いついていること?

ACIMでは身体に重きを置くべきではないとしている。それなのに、姿勢をよくするために体幹を鍛えろとは…!私は、聖霊さんというより、エゴの声を聴いているんだろうか。

まぁ、腹筋背筋が衰えていて、椅子に座っていても前かがみになりがちではある。どっちにしても、体幹を鍛えて悪いことはなにもなさそうだ。

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